2020年に開催予定の東京オリンピック。そこでの正式種目「男女7人制ラグビー」に出場するべく日々練習を重ねている女子選手たちがいます。彼らが拠点としているのは埼玉県熊谷市。熊谷市は「西の花園、東の熊谷」と言われるラグビータウンで、女性の社会進出や男女の機会均等化の流れを受け特に女子ラグビーの強化・育成に力を入れています。
その活動を支えているのが、地域に密着したラグビーを推進するNPO法人「ARUKAS KUMAGAYA」。今日お話を伺ったのは、ARUKAS KUMAGAYAでキャプテンを務める竹内 亜弥(たけうち あや)さんです。
普段の様子を見せていただくため、竹内さんたちの日頃の練習場所である熊谷スポーツ文化公園を訪ねました。広大な土地にドーム型屋内運動施設や陸上競技場、3面ラグビーグラウンドなどを有し、2004年には埼玉国体のメイン会場となったというこの公園。実際に行ってみると非常に開放的な空間で、運動は大の苦手の私ですらなんだか走り出したくなるような自然が広がっていました。
女子ラグビーのプロ選手の多くは、会社勤めなどと並行して生計を立てています。竹内さんは新卒で大手出版社に入社しましたが、代表活動の多忙化により退職を決意。キャリアと夢という2軸の間で、竹内さんはどのような選択を重ねてきたのでしょうか。ラグビーを始めたきっかけやプロを目指した経緯と併せてお話を伺います。
ラグビーを始めたきっかけ
ラグビーといえばタックルをしたりボールを抱えて走り抜けたりと、ハードなイメージの強いスポーツです。竹内さんはどのようなきっかけでラグビーを始めようと思ったのでしょうか。
「実は最初に出会ったのは、ラグビーではなくアメフトでした。進学した大学がアメフトの強い学校だったんですが、私は当初バレーボール部に所属していて。体育会の仲間同士すごく仲良くてお互いの部活を応援に行く機会があったのですが、そのときに『アメフトは外で走り回るのが気持ちよさそうだなあ』と感じたのがきっかけです。バレーボールは室内でおこなうので、風が通らなくてなんだかもわもわしているんですよね…。あと、アメフトはボールを持っていない人へのコンタクトプレー(体が接触するプレー)が許されているので、タックルしてきた人を飛び越えたりしているのを見て、単純に面白そうだなって思いました」
竹内さんがアメフトに出会ったのは大学4年生のとき。既に就職先も決まっていて、上京することも決定済みでした。そこで、関東で女子のアメフトチームを探そうと思い立ったそうです。
「でも数が少なくなかなか見つからなくて。苦労の末に見つけたのが、家から30分ほどで通えるラグビーチームでした。ラグビーはやったことどころか見たこともなかったんですけど…(笑)」
–新しいことを始めるときって多くの場合すごく体力や精神力を使うと思うんです。慣れない土地で、就職という大きな変化もある中で、さらに新しくラグビーという挑戦をしてみようと思ったというのはなぜなのでしょう。
「私は上京するまでもずっとチームスポーツをやってきて、その中で人間関係を築いてきました。なので慣れない土地に出てくるにあたって、こちらでもなんらかのチームに所属していたいという思いが先にあったんです。
それに、そのときはあくまで趣味でやろうと思っていました。所属したのは『ワセダクラブレディース』というチームなのですが、週に1度土曜の夜に2時間程度の活動で、試合も年に一回だったので負担なく始められました」
「遊びを作り出す」という軸
–では元々プロを目指していたわけではなく会社員として生計を立てていくつもりでいたのですね。竹内さんは新卒で新潮社に入社されていますが、元々出版業界を志望していたのですか?
「本当は大学に入る前からずっと、体育の先生になりたい思っていたんです。ですが、自分が中高一貫の進学校に通っていたこともあって、体育の先生は高校で担任が持てないものという印象が強くて。体育の先生の立場が低いというか、担任は任せられないと思われているような状況に違和感があって、自分は他の科目の教員免許も取って学問も体育もどちらも教えられる先生になるんだと燃えていました。それで大学は哲学科に入学して、他の科目を聴講で取りながら教員免許を取ったんです」
–すごい! でも結果的には体育教師にならなかったのですね。
「そうですね。その教員になるための勉強の過程で、自分が取り組みたいと思える大きなテーマが見えてきたんです。それは『遊びを作り出す』というもの。体育教育には『鍛える』とか『スポーツ技術』などいろいろと勉強すべき側面があるけれど、それ以外に『遊びを作り出すアイディア』のような能力もあるのではないかと思うんです。たとえばサッカーだったら、『国際ルールはこうだけど、この場所で今いるメンバー全員で遊ぶには誰にどんなルールをつけたらみんな平等に遊べるか、遊びとして成り立つか』というのを臨機応変に考える力ですね」
「ラグビーも元々7人制なんてなかったのに、スポーツ人口の減少を受けてそういうスタイルが派生しました。遊び方を柔軟に変えていくということでいろんな人が楽しめるようになるというのが、スポーツをするにあたって重要な発想のひとつなのだと思います。そういうのを含めて、『楽しむ能力を育てる体育教育を作りたい』というビジョンができていたのですが、それは体育の先生になって実現していくのもいいし、もっとほかの形でも追求していけることだなと気づきました。出版業界に当てはめて考えると、本やおもちゃを作って楽しみを作り出すという社会への関わり方も、目指しているものを実現するひとつの方法だなと。結果的に体育と出版の2本柱が自分の中にあって、たまたま出版の方から先に内定をいただいたので決めたという形です」
–出版社に入ったときは、将来はこんなふうになりたいというイメージがありましたか?
「読んで、遊んで終わりではなく、ずっと持っていたくなるようなものを作りたいと思っていました。『いつ買おうかな』ってわくわくしたり、『空いた時間にあれを読もう』って思い浮かべてもらえるようなものが作りたいと。その目標も、最終目標というよりはあくまで『遊びを作り出す、楽しさを作り出す』ための手段のひとつというイメージでした」
–実際に入社してみて、仕事はどうでしたか?
「それぞれ自分の仕事をするという自立した社風で、入社後一ヶ月ほどで現場に出ました。最初は営業部で書店まわりをしたのですが、右も左もわからなくて必死でしたね。3年目くらいから、いわゆる花形的なポジションである文庫の販売担当となり特集フェアを一から自分で組み立てたり、いろいろな企画に携わったりとかなりやりがいのある仕事を任せてもらってすごく楽しかったです」
−平日にフルタイムで仕事をして、週末にラグビーの練習をするというのは疲れてしまいませんか?
「仕事とラグビーはそれぞれ全く違うものだからこそお互いに良い息抜きになったと思います。たとえばラグビーはひたすら走るだけのようなきつい練習もあって、デスクワークの方がらくだな〜って思ったりするんですけど、いざデスクワークをしていると、走っている方がらくだな〜って思ったりもして(笑)両方が両方にとっての良いオフになってるという感じだったんです。
あと全然違うコミュニティだからこそ楽しいというのもありました。仕事の人とランチするのと、ラグビーの仲間と話すのとでは全然違います。OL仲間とはそれこそ噂話とか恋バナとかしますけど、仕事で編集さんと話すときは本の話、ラグビー仲間とはラグビーの話とかくだらない話とか……どれが欠けても違うんですよね」
思わぬ形で代表合宿へ
そのようにして仕事とラグビーを両立していた竹内さん。徐々にラグビーにおける活動が本格化していったのには、何かきっかけがあったのでしょうか。
「私がワセダクラブレディースに入ったのは2009年の5月だったのですが、その年の秋に7人制ラグビーがオリンピックの種目になったと聞いたんです。そもそも女子ラグビーは競技人口が多くないので、代表選手を選ぶにあたって他種目からも候補者を集めようという動きがあって、日本ラグビーフットボール協会がトライアウト*を実施しました。その頃私は23歳だったのですが、適齢だからということで受けてみればと勧められたのがきっかけです」
*トライアウト:適性検査・試験興行を意味する。 一般にスポーツ競技の団体に加入を希望する選手が、団体関係者の前で自己の能力をアピールし、契約を目指す場のこと
トライアウトがおこなわれたのは2010年の冬。そのテストは、他種目からの転向を志望する人を対象にしたものと経験者を対象としたものとで分かれていました。竹内さんは当時まだラグビーを始めて1年半でしたが、チームに所属していたことから経験者向けのテストを受けることになります。
「他種目からの転向組に課せられるのは腹筋や体力測定のようなものでした。私もそのつもりでいたのですが、当日突然『経験者の方に来い』と言われて…それに他種目転向と言っても、応募してきているのは国体を出ているような本格的な人ばかりで、自分は何も取り柄がないのにどうしてここに来ちゃったんだろうって思っちゃったんです」
結果は、合格ではないものの不合格でもない「保留」というもの。たくさんの人がトライアウトを受けた中で、保留となったのは2人だけだったと言います。
「合格ではないんですが、代表合宿に参加する権利を得ました。結果的にはその合宿を終えたあと不合格となったのですが」
–合宿はどうでしたか。
「私、合宿でも萎縮してしまって、全然自分の能力を発揮できず不完全燃焼でした。上手な人に自分から教えてと言えたら良かったんですが、迷惑かけたらどうしようという気持ちでいて思い切りチャレンジすることができなかったんです。でも、その合宿でいろんな人と知り合ったことで、もっと強いチームを目指したいという意欲が芽生えましたね」
合宿に参加するさなか、竹内さんは世田谷レディースに移籍。より本格的にラグビーをする環境へと身を投じます。
「世田谷レディースは所属している人数が多く面倒見も良くて、一からラグビーのことを教えてもらいました。本格化したといっても、当時の環境では代表選手であっても月に一度お休みをもらって代表合宿に参加したり、年に1〜2回有給休暇を取って遠征に参加するというようなものだったので、ラグビーのために仕事を整備しないといけないというようなことはなかったですね」
代表までの挫折と道のり
転機が訪れたのは、2012年。日本ラグビーフットボール協会の主催で関東、関西、九州の各協会の代表が戦う「三地域対抗試合」がおこなわれたときのことでした。
「とにかく競技人数が少ないので、試合をしようにも本当に人数が足りなくて。『関西と九州が対決するけれど九州の人数が足りていないから出て!』という感じで呼ばれるんです。それで世田谷レディースでは、強いメンバーが集まるチームと、『選抜される実力はないけれどどうしても試合に出たいというメンバー』でチームを組みました。私は後者のチームに加わったのですが、寄せ集めたメンバーなのでバランスが悪く、フォワードというポジションのメンバーが多くなってしまっていて。どうしてもできる人がいないからという理由でスタンドという司令塔ポジションをやらなくてはいけなくなりました。一ヶ月間、一生懸命練習して試合に挑んだところ、ボールタッチのきっかけも多くて活躍することができたんです。そのときに協会の方から『ラグビーのスキルはまだ発展途上だけれど、ボールを持ったときに前へ出て行く姿勢や運動量、持久力が良い』と言っていただきました。
その後、世田谷レディースの一員としてJAPAN WOMEN'S SEVENS に出場した時にスカウトしてもらい、代表選手候補でのエキシビジョンマッチに参加したんです」
一歩ずつ着実に代表選手への道を歩んでいった竹内さん。しかし、そのときはまだ自分に自信が持てずにいたと言います。後編では、竹内さんが名実共に代表選手となるまでの葛藤と取り組み、そしてARUKAS KUMAGAYAへ所属しリオへ挑戦するまでのストーリーを追っていきます。