日本文学研究者 / 編集・執筆
共著:リベラルアーツと外国語 | 水声社
「役に立つ外国語」から「他者理解の想像力」へ。 外国語教育はなぜ必要なのか?コミュニケーションのための外国語から、リベラルアーツとしての外国語に至るための第一歩を踏み出す助けになる本です。
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日本文学研究者 / 編集・執筆
ニューヨーク市出身。近世・近代日本文学が専門で、とくに19世紀(江戸後期~明治前半)の漢文学と、それに繋がる文芸ジャンル、芸術、メディア、思想などに関心を寄せている。テレビでMCやニュース・コメンテーター等をつとめる一方、新聞雑誌連載、書評、ラジオ番組企画・出演など、さまざまなメディアで活躍中。ブリティッシュショートヘアの女の子・夕吉と暮らしています。趣味はサップ(SUP-Stand Up Paddle)。アメリカに住む妹に教えてもらいながら楽しんでいます。
これまでずっと続けてきた、日本文化の研究を自分の活動の幹に置きながら、その先にある枝葉のほうにも手を伸ばし、さまざまなことへと取り組んでいきたい。言葉、文学的表現の独自性、そこからなにが発見できるかを研究するほか、研究者仲間とも共に何かをつくりたい。文学を学びながら人を巻き込み、人に何かを教えることで新たな問いを見つけていきたい。
日本文学を中心に、文学の奥深い世界を伝える
実証的な研究を積み上げていくのと同時に、人々にきちんと情報を伝えてく
一方的に発信をするのではなく、訪れる人と交信・共振させるような場づくりを行う
本来の教養について伝え続ける
江戸時代の日本文学を研究しながら、学生の潜在的な感性を引き出す授業を行う
学部3・4年生向けには ・日本近世「通俗」考(演習) ・近世における文学と芸道論(演習) ・風景文化論(講義)など、 学部1・2年生向けには ・開化と教訓(講義・日本語テクスト分析) ・絵画に生まれた日本の文学(講義・日本語テクスト分析) ・小説『南総里見八犬伝』を読む(講義・テクスト分析) ・怪談教室(講義・比較文化論) などの授業を行っていました。
古典籍という歴史的な文化資源を、未来のために守り続ける
世の中に変化をもたらす人材を一緒に育てるプロセスに関わる
UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で、全国の学生達と一緒に一週間ほどワークショップを行いました。 参考:http://www.highflyers.nu/bs/robertcampbell/
日本文化を中心に引き続き研究を行う
本研究は、文明開化期における表現の歴史をふりかえり、当時の日本で先進的「文明」がどのように認識され展開し、新規様々な表現態を生み出すに至ったかを具体的に究明しようとしたものである。史上まれにみる「啓蒙」の時代は、民衆の教化を国策として最優先しつつ、あらゆるメディアの転換を実現し、近代国家そのものの形に決定的な痕跡をのこした。
岩波書店「文学」2003年1・2月号に掲載されました。
東京大学国語国文学会編「国語と国文学」第80巻第11号に掲載されました。
さまざまな文献資料を通して日本文学への理解を深めるとともに、アーカイブ化に貢献する
研究生として日本に行き、江戸文化を学ぶ
国語国文学研究室に新しくポストができるということで、奇跡的に入ることができました。 日本文学を考えたり、教えたり、発信したりする経験を重ねたことで、自分自身の研究方法も変わっていきました。
日本に来て1年ほど経った頃、病気になられた先生の代わりに、福岡女子短期大学で非常勤講師として国文学を教えることになりました。突然のことだったので自分にできるものかと不安でしたが、入念に準備した上で江戸後期の文学作品について講義をしました。悪戦苦闘しながらでしたが、頑張れば自分にも出来るというのが分かり、先生が復帰したあとも続けることになりました。
江戸時代の文化を研究する
4年生で進路を考えたとき、就職という選択肢はありませんでした。 経営学のMBAを取得するか、尊敬する継父のような弁護士になるために国際法などを学ぶか、大学から引き続き学問を学ぶか、その3つのうちどれかだと考えていました。そして、学問を選ぶなら、文学だと考えていました。 ぎりぎりまで迷っていましたが、決め手になったのは東海岸のほうにある大学院の教授たちに面会を申し込み、行脚した経験です。母はすでに西海岸から東海岸のほうに転居していたこともあり、私もどのみち東海岸に戻って勉強したいと考えていました。 そこで、東海岸にあるいくつかの大学院の、日本文学の教授に手紙を出して面会を申し込みました。一人あたり2〜3時間の時間をもらい、話をいろいろと聞いていく中で「文学は、いましかできない」という思いが強くなりました。 その面会ツアーの中で一番面白かったのがハーバード大学院だったのと、ハーバードには大きな図書館があるということで、ハーバードに進学することを決めました。
高校では学ばなかった日本文学やコンピューターサイエンスを学ぶ
大学3年生から4年生にかけて、1年間日本に留学していました。 バークレーは出る方も迎える方も留学がすごく盛んだったこともあり、留学自体は珍しいものではありませんでしたが、日本に行く人は少なかったように思えます。 日本では特にカルチャーショックを受けることなく楽しく過ごすことができましたが、日本語の勉強には引き続き情熱を注ぎました。 自分の言葉をレコーダーに吹き込んで、ネイティブの日本語とどこがどう違うのか日本人の友達にフィードバックをもらいながら、徹底的に修正していくということを続けました。
日本語を勉強すると決めてから、1年生の夏にバークレーでの夏期講習を受講し、2年生では中級を1年間履修、3年生の上級ではバーモント州にあるリベラルアーツカレッジの夏期講習で徹底的に学びました。カレッジでの夏期講習では「ここに入っている間は一切英語を使わない」という誓約書まで書いたほどで、全寮制で2カ月間、徹底して外国語を学びました。その間、英語を使うことを禁じられ、公衆電話で家族や友人と話すこともできず、苦しい気持ちにもなりながらとにかく日本語を体に叩き込みました。 3年間集中的に日本語を勉強した経験から、言語習得というのは、基本的に「フィジカルなもの」だという実感を得ることができました。筋力トレーニングや楽器の習得のように、できない部分を繰り返し体に覚えこませる行為なのだと思います。
新しい扉を開くために、高校時代は学ばなかった・やってこなかった統計学やコンピューターサイエンスと、それまで僕の視界に全くなかった日本美術を学び始めました。もともと日本の文化に興味があったわけではなく、そのときの気分で選びました。
私にとって、大学進学は決して当たり前のものではありませんでした。進学校に通っていたので、同級生は頑張って受験していましたが、私は高校2年生くらいの頃から学校よりも外での課外活動に熱を上げていました。 学校をサボって、上の世代の友達とダンスをしたり、舞台に出たり、芸能活動のようなことをしていたのですが、そういった友達はもちろん大学になんか行っていません。 そういった日々がとても楽しかったことや、まわりから「大学に行ったら遊べなくなるんじゃない?」と言われていたこともあって、進学するかどうかはすごく迷いました。 なぜ、結果的にバークレー校に進学することになったかといえば、日本の共通テストのようなものである程度の点数に届けば入れることがわかっていたからです。安直に、とりあえず願書を出して、忘れた頃に合格通知が届いたのを覚えています。 仲間たちとずっと一緒にいたかったけど、サンフランシスコと大学はそこまで遠いわけではなく、週末に通えるだろうと考えていました。 振り返ってみれば、大学に入ったことは人生の大きな転機だったと言えますが、引かれたレールの上を走るのではなく、転がり落ちていったというのに近いかもしれません。
日本文学研究者 / 編集・執筆
「役に立つ外国語」から「他者理解の想像力」へ。 外国語教育はなぜ必要なのか?コミュニケーションのための外国語から、リベラルアーツとしての外国語に至るための第一歩を踏み出す助けになる本です。