なにをやっているのか
水牛車です。
ブーゲンビリアガーデンです。
由布島は沖縄県の観光地の一つ、旅行者は水牛車に乗って、由布島に渡ります。島に渡った後は、島全体が植物園になっているので、歩いて散策します。植物は沖縄特有の植物が多く、ガジュマル、ハイビスカス、ブーゲンビリア、トックリヤシモドキなどがあります。島内には、お土産屋さんを併設したレストランがあります。また、そのほかの施設としてオオゴマダラという蝶々が舞っている「蝶々園」、たくさんのきれいな花が見ることのできる「ブーゲンビリアガーデン」があります。
私たちの仕事は、「接客業」になります。といっても、その内容は多種に及びます。植物園での植栽、園内整備、施設管理。水牛車乗務員、水牛車運行管理、水牛飼育、訓練。お土産店での販売員。レストランのホールスタッフ、厨房において調理スタッフ。事務経理、旅行者予約管理などになります。
なぜやるのか
元由布小学校 門
園内風景
由布島には歴史があります。今は観光地として賑わっていますが、その昔は一つの集落がありました。昭和20年(1945年)頃から、竹富島や黒島から人が移り住んできました。その理由は、稲作です。由布島は、西表島から歩いて10分の所にあります。海を渡りますが、浅瀬になっているので問題はありません。そして、西表島は川があるのでお米を作ることができます。そのため、竹富島や黒島では作れないお米を作るために人が移り住んできました。また、由布島には蚊がいないのでマラリアを防ぐことができ、そのうえ井戸も作ることができ、人が住むには最適な島でありました。昭和30年(1955年)頃には小中学校もでき、昭和40年(1965年)頃には人口は120名、25世帯の住む島になりました。しかし、ここで一つの災害に遭います。昭和44年(1969年)エルシー台風という大きくて強い台風が直撃します。由布島は海抜1.5メートルの低い島、高潮のため家や学校、商店などが床下浸水をしてしまい、多くの被害がでました。この惨事により、住民たちは台風の恐怖と将来の不安から島を出ることを決めます。昭和46年(1971年)に、住民のほとんどが西表島の美原という地に新しい集落を作ります。しかし、残った家族もありました。それが、この由布島という植物園を作った西表正治をはじめとする家族です。政治には10名の子供たちがいました。その頃にはほとんどの子供たちは島外を出て進学する者、働く者といましたが、正治はいずれ帰ってくる子供たちを思い、由布島を「南国の楽園」を作ることを決意し、一人で黙々と浜に流れ着いたヤシの実を植え始めました。最初一人でしたが、子供たちも帰ってきて手伝う者も現れ、また、沖縄本島で実業家として活躍していた知名洋二という人物もこの島の可能性に気づき、投資をはじめ協力していきました。そして、昭和56年(1981年)、水牛車で西表島と由布島を渡して、島を散策してもらう観光事業がスタートしました。現在では、日本各地から年間20万人もの旅行者が訪れる観光地となりました。
そして、私たちは、働くスタッフも観光で訪れるお客さんも、「帰ってきた」
と思われる島づくりをしていきたいと思います。
創業者である「正治」と同じ思いで進んでいけたらと思います。
どうやっているのか
私たちの仕事は、様々ですが、一つのことを専門に行うのではありません。朝、水牛車の乗務員を務め、午後からは、園内の植栽管理をしたり、レストランの厨房で昼食の準備後、お土産屋さんでお土産の販売をしたりと皆さんがそれぞれ協力し合って仕事をしています。
また、働いてるスタッフも、日本全国からきています。年齢層も20代から80代(水牛車の乗務員の中心はオジー、オバー)と幅広くなってます。