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新卒ブログ|1本の映画から始まった社会起業への道

※2022年4月入社時の内容です

はじめまして。藤井優花(ふじいゆうか)と申します。

私は「自らの境遇に関わらず誰もが自分らしく輝く社会のインフラづくり」を実現するために、日本に暮らす難民申請者の方々の雇用創出をできる会社を立ち上げたいという想いを胸に、ボーダレス・ジャパンにジョインしました!

<目次>
1.止まってた心が動き出した1本の映画
2.たくさん回り道をした学生時代
3.パレスチナ難民の方と交わした約束
4.確実に社会を良い方向へ変えていく、それを体現する場
5.最後に

1.止まってた心が動き出した1本の映画

高校までは遊ぶことが第一。千葉県出身でディズニーに行くことしか頭になかった私が難民問題に興味を持ったのは大学2年生の時。当時のことをブラックホール時代と呼んでいます。

なぜブラックホール時代と呼んでいるか?
それは、目標も、夢も、やりたいことも何もないからっぽな日々だったからです。

留学を目標に大学は国際系の学部に入学。授業、バイト、留学準備と順調だった一年生の冬に免疫系の病気になり、中学時代から目標にしていた留学は渡航一週間前に中止。その後は「治らない病気」との終わりのない治療の日々。当時19歳だった私は、崖から突き落とされたまま上に登る気力も、気持ちを奮い立たせるような希望もない状態でした。大袈裟かもしれませんが、モノクロのように色がない日々だったように思います。

退院から半年くらい経ったころだったでしょうか。たまたま紛争地で救急救命士として駆け回っているシリア難民の方のドキュメンタリー映画を見て心が揺さぶられました。自らが難民にも関わらず、スクリーンの中で懸命に目の前の命を救おうとしているそのエネルギーに圧倒され、不思議ですが、全く異なる背景を持つ私が共鳴した瞬間でした。そこから調べていくうちに日本にも難民の方がいると知り、彼らの力になりたいと学生団体やNPO法人の門戸を叩きました。


2.たくさん回り道をした学生時代

3年間にわたるインターンシップやボランティア活動を通して、日本、デンマーク、ベルギー、オーストラリアの難民支援の現場に携わらせていただきました。難民支援センターでの食糧配給、学校や企業での異文化間理解促進ワークショップ活動、現地住民とニューカマー(難民や移民の方)をつなぐ対話イベントの企画運営、母国語習得のための学校でティーチングアシスタントなど、たくさんの経験をさせていただく中で、さまざまな立場の難民の方とお話しする機会がありました。友人や家族を紛争でなくしたり、逃げた先の日本ですごく不安定な状況に置かれたり、大変な状況にいながらも懸命に生きることを諦めない彼らとの対話は、話している私が元気をもらうようなそんな時間でした。難民の方々が自身のストーリーを、自らの声で安心安全な形で発信できる場所を作りたいと思いポッドキャストも始めました。


写真:デンマークのNGOが出展したイベントにて

たくさん挑戦して、たくさん試す中で思い出す光景は、デンマークで働いていた頃の記憶。首都のコペンハーゲンにオフィスを構える国際NGO Crossing Bordersでパレスチナ難民のグラフィックデザイナーの同僚と仕事をする機会がありました。働くことは生きること。イキイキと目を輝かせながら働く彼の姿を見て、日本にもこの光景を増やしたい、「日本人も、難民の方々も最高に輝ける場を増やしたい」という気持ちが芽生えました。
そこから何ができるか、ワクワクするかを探求したどり着いたのがソーシャルビジネスでした。

3.パレスチナ難民の方と交わした約束

コロナ前にベルギーの難民センターでキッチンチームのボランティアをしていた頃、同世代のパレスチナ難民の青年と仲良くなりました。彼はガザ地区というイスラエルに軍事占領されている地域から来ました。爆撃で親戚をなくし、自身も被弾したという彼は、難民のことを学んでいる日本人学生がセンターにいると聞きつけ来てくれました。英語が話せない彼と、アラビア語やフランス語が話せない私。私たちの対話は時には翻訳機を使い、時には周りの難民の方々に通訳をしてもらいながら行っていました。彼は私に、祖国のパレスチナのこと、海を渡ってきたこと、ベルギーでの生活など自身のことを語ってくれました。私と歳の変わらない当時20歳前後の彼が一人で異国の地で暮らすのはどれほど勇気と忍耐がいることだったでしょう。

私が、なぜ初めて会った私に話してくれたのかと理由を聞くと、彼は私の目をまっすぐ見て言いました。
「君が日本で難民のことを勉強しているって聞いたから、君が日本に帰った時に日本に暮らす難民の人たちのために何かしてくれるだろうと思って。」

彼の想いを託された対話でした。この言葉をもらった時、私を信じてくれて嬉しい反面、当時の私は本当に自分に何かできるのか不安でした。帰国後、覚悟が決まるのには2年間かかりました。でも、どうしても彼との約束を守りたくて、デンマークの会社で見た光景を日本に増やすことを諦めたくなくて、ボーダーレスジャパンのRISEプログラムに応募しました。


写真:NPO法人WELgeeの運営するトークイベントにて

4.確実に社会を良い方向へ変えていく、それを体現する場

本気で日本に暮らす難民の方々の生活を良くしたいと思った時に、私の役割はなんだろう。どうやってポジショニングを取れるだろうかと考え続けました。そこから、難民人材を雇用することが当たり前になる社会に向け、前例を作っていくことだと思いました。その時に以前から知っていたボーダレスの先輩であるピープルポートさんの事業を思い出し、経営もビジネスも全く分からない私も起業家を目指せるRISEプログラムを見つけました。冒頭でお話したように、私は持病があるので人よりもお金がかかります。そのため、収入がない状態で起業家を目指すことはできませんでした。ボーダーレスジャパンなら新卒から起業を目指せる、最後に残った希望の光でした。病気だって、知識や経験がなくたっていい。今ある社会を変えたい、その想いを仕事として本気で取り組める場所がボーダーレスジャパンだと思います。

5.最後に

私は、日本人も、日本に暮らす難民の方々も、最高に自分らしく人生を楽しむことができる社会をソーシャルビジネスを通して実現したいと思います。そして、私と同じように病気やそれ以外のリスクで起業という選択肢を取りづらい状況にいる人たちが、藤井がやったならトライしてみようかなと、自らの境遇に関わらず社会起業という選択肢を持てるように全力で頑張りたいと思います。

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