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廃墟となっていたアパート「萩荘」からはじまったこと

みなさんはじめまして! 私は東京の「谷中」という地域で、
株式会社HAGI STUDIOの代表をしております、宮崎晃吉と申します。

今回は私たちの活動のきっかけとなったHAGISOが生まれた経緯についてご紹介したいと思います。

はじめに簡単に自己紹介しますと、私は1982年群馬県前橋市生まれ、
大学進学のために上京して以来東京には14年間住んでいます。
大学は東京藝術大学建築科に一浪して入学し、大学院修了後、
アトリエ系設計事務所に勤めました。
大学院から社会人として働いていた間、住居として住んでいたのが「萩荘」です。

昭和の空気が流れる下町・谷中

まず、萩荘のある「谷中」という地域についてご説明しなければなりません。
谷中は東京の東側、上野の少し北にある地域です。
江戸時代、上野には江戸の鬼門の方角を守るために置かれた寛永寺がありました。
この巨大な寺の子院が点在する地域として、谷中には今も多くの寺が残っています。
また、震災、戦災を逃れ多くの古い建物や路地が残る東京でも貴重な地域です。
大きな街道などはかたちを変えてしまった今でも、
江戸時代の地図にぴったり合うような路地が多くあるそうです。
商店街が未だに元気で、特に「谷中銀座商店街」には多くの小売店が残っており、
地元の人に愛されています。
また、東京藝術大学(以下芸大)や東京大学から近く、学生も多く住んでいます。

住み継いできた、約築60年の「萩荘」

萩荘は谷中銀座商店街から一本路地を入った静かな住宅地にあります。
1955年、物資も少なかった戦後まもない時期に竣工した、
木造2階建ての賃貸アパートです。
典型的な中廊下型の共同住宅で、各部屋が六畳の単位で構成され、
それぞれ四畳半の畳部屋と半畳ずつの玄関、収納、手洗いを持っていました。
当初は1階7部屋、2階も7部屋の計14部屋に分かれていたそうで、
そのころの鍵束は、今でも残っています。

芸大の建築科の学生連中がここに住み始めたのは2004年の春ごろで、
空き家として誰も住んでいない状態だったところを、
大家さんに交渉してお借りすることになったそうです。
私は2006年頃から合流しました。
家は人が住んでいないと、それだけで劣化が進みます。
日々のメンテナンスがなされないことや、
室内の湿度調整がされないことで内装から徐々に構造まで蝕まれます。
そんな状況よりはマシだろうということで、
学生連中に破格の家賃で貸していただけることになったわけです。

私たちが使い始めた時、萩荘にはすでにいくつかのリフォームが施されていました。
学生たちが住み始めた2004年以降、床の仕上げや間仕切壁に手を入れ、
自分たちなりに改修を施して使っていました。
近くの芸大の学生を中心に5〜6名が多少の入れ替わりを経つつ住み継ぎました。
共用のアトリエ、食堂、座敷が一階に設けられ、
その他の部屋は各住人の個室として1階2部屋、2階に4部屋用意されました。

萩荘に実際に住んでいたのは5〜6名でしたが、
住んでいた連中のオープンな気質もあって、さまざまな人がここを訪れました。
なかには何日間も入り浸って住人然としている者もいましたし、
住人は基本的に鍵もかけず生活していたので、
帰ってくると誰かの知人の知人(つまり他人)が
宴会をしていたということもしょっちゅうでした。
実際、あまりに無防備すぎて空き巣が入ったことも何度かあったようでしたが、
誰も気づかず後で警察の方に教えられるといった始末でした。

震災後に決まった、萩荘の解体

2011年3月11日、東日本大震災が起きました。
東京谷中のこの地区も大きな揺れを感じ、
まち中も道端の塀がくずれたり屋根の瓦が落ちたりといった被害がありました。
萩荘自体は目立った損傷はありませんでしたが、
以前からの設備関係の老朽化が限界に達しており、
今後のことを案じた大家さんより、解体の方針を伝えられました。
解体の後は、しばらくは駐車場として使用するとのことでした。

我々入居者はほとんどが大学を卒業して働いていましたし、
僕は既に萩荘に7年も住んでいましたので、解体には納得していましたが、
みな何か最後に記念となることをしたいということは共通で思っていました。

ところで、こう考えたのには先だってきっかけがありました。
それは、萩荘解体計画のちょうど1年前、近所の銭湯が解体され、
分譲住宅になってしまったことでした。
近所のひとたちからも、また我々萩荘の住民からも愛されていた銭湯でしたので、
それが突然なくなってしまったことに私たちは非常にショックを受けました。
建物の突然死です。

こんな経験を経たことで、愛着をもった場所に対して、
きちんと別れを告げるセレモニーの必要性を感じるようになったのです。
そんなことを住人でいつもの行きつけの居酒屋で話しているうちに、
酒の席のノリで開催することになったのが「ハギエンナーレ」でした。

建物をまるごと、展示空間に。

ハギエンナーレは、名前はふざけていますが、
内容としては真剣に大家さんに対して最後のお願いとして申し出たイベントでした。
2012年の2月までに全員退去するという約束でしたので、
その後の2月25日から3月18日にかけて、
入居者や萩荘に入り浸っていた芸大生たちによって、
萩荘全体を使って展示をするというものでした。
建物の解体を前提とした展示でしたので、
基本的に復旧を考えず建物そのものに手を入れるという方法としました。
つまりなんでもアリです。

来場者にとっては建物や空間自体を記憶する機会となり、
この瞬間ここでしか体験できないものとなると考えたからです。
総勢20名以上の作家によって、建物のあちこちに作品が存在する、
もしくは建物が作品化している光景を目にすることができました。
柱を彫刻したり、壁に崩壊寸前までビスを打ち続けたり、
逆に壁の傷や穴をすべてカラー粘土でふさいだり、
床を壊して吹き抜けにして鳥小屋に改修したり、2階廊下に土を撒いて植木を植えたり、
といった作品は、平凡な木造アパートに最期の一瞬の華やかさを与えているように見えました。


ハギエンナーレがスタートすると、毎日交代で受付をし、わざわざ来てくれた方や、
たまたま通りすがった方と話をしながら、この場所のいきさつや思い出を聞くことで、
地域の方とのコミュニケーションのきっかけともなりました。

facebookやTwitterでの必死の告知や、
いくつかのweb上のメディアにとりあげていただいたこともあって、
ハギエンナーレには私たちの予想よりも多くの方が来訪し、
結果的には3週間の展示期間で、
約1500人もの人が訪れることとなりました。
最終日のクロージングパーティーにも、
会場に入りきれないほどの人に来ていただくことができ、
壊れゆく建物を弔うお葬式のような、またお祭りのような、
妙な高揚感とともに「ハギエンナーレ2012」は終わりました。

しかしこれでは終わらなかったのです。
クロージングパーティーには大家さんも参加され、
一緒になって楽しんでくださっていました。

これが萩荘を再び甦らせるきっかけになるとは、
つゆとも思っていませんでした(ほんとはちょっとだけ思ってましたが)。
それでは、続きはまた次回。

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