なぜダイバーシティを考えるのか?
皆さんは、この記事の冒頭にあるメインビジュアル写真を見てどのような感想を得ただろうか? 男性が4人飲んでいる。年齢も近しそうだ。仲も良さそうだし、ダイバーシティ・多様性という意味では、似た者同士が集まっているように見える。というのが、概ねの印象ではないでしょうか?
今回はソーラーパートナーズにて毎月全社総会で行なっている理念研修で実施した「D&I,E研修」について話そうと思う。なぜダイバーシティを研修のテーマに取り上げたかというと、ソーラーパートナーズが掲げるValueには「ゼロベース(一旦ゼロに立ち戻って考えることを大切にします。)」や「チームワーク(お互いを思いやり、それぞれの強みを活かし合います。)」を掲げていて、大切な価値観だけとしてではなく、それを行動に起こそうとした時には、このダイバシティの捉え方が重要になると考えたからだ。
つまりは、ダイバーシティを、表層的に男女差や年齢差といった属性の多様性で捉えて欲しくなく、もう少し本質的に多様性とは何なのか?なぜ多様性が重要だと言われているのか?を正しく理解した上で、「ゼロベース」や「チームワーク」をソーラーパートナーズのValueに掲げているのかを考えてほしいと願っている。これは、当社に限った話でもなく、万人に言えることでもあり、是非ご覧いただきたい。
まずは用語の解説から…
昨今世の中では、「D&I」「D&I,E」「D,E&I」「D&E&I」など様々に表現されることが増えてきたが、簡単に説明すると、以下の通りの略となる。
- D = Diversity = 多様性
- I = Inclusion. = 包含
- E = Equality/Equity = 平等/公平
最近では、Diversity・多様性単体で語られることはなく、多様性を包含させる(交り合わせる)ことの大切さや、一方で平等/公平をどのように捉えるのかもセットで考えることが増えてきた。それは、多様であることだけでは価値を創出することはなく、さらには多様であることは平等/公平といった概念とは相矛盾する側面があるからだろう。
多様性とは? その反対語は? 多様性は良いこと?
こう問われると皆さんはどのように答えるだろうか? 表層的には「性別」「年齢」「国籍」「障がい」といった属性の区分によって不要な差別を避けることをダイバーシティと捉えることが多いだろう。ニュース・報道などでも、この側面でダイバーシティを取り上げることが多い。もちろん、これも大切で、僕自身も属性の区分によって不要な差別を避けるべきだと考える。本質的には、人は誰でもユニークな存在であり、同じ人は誰一人としていない。そう捉えることが、本来的なダイバーシティであるとも言えると思う。
多様性の反対語を捉えると、「同一性」「同質性」などと表現され、多様な価値観が認められないことを揶揄して、軍隊的とか金太郎飴的とか、ルールや規律などネガティブに捉えがちでもあるが、一方では一糸乱れる団結力とか集団行動などにおいてはポジティブな捉え方をすることもあるだろう。ルールや規律がなく型に嵌めない世界を想像すると、多様な価値観を認めた結果、無秩序な世界を好む人もそうは多くないだろう。僕らの生活は、決められた時間に電車が来たりだとか、そもそも法律という規律(型に嵌めるもの)があり、安心・安全を得られてもいる。
ビジネスにおいても、就業規則など型に嵌めたルールによって組織内の秩序は守られているし、そもそも経営理念や事業内容、Mission,Vision,Valueなどに共感した人が集まり、組織は運営されているので、むしろ多様性が高い方が、同一性が高いよりもビジネスするのは難しく思えてきたりもする。こう考えていくと、多様性にも同一性にもそれぞれ一長一短があり、何を同一視し型に嵌めた方が良いのか? 何を人はユニークな存在と捉えて多様さを確保するのか? といった部分的な両立が重要に思えてくる。
ダイバーシティが注目される歴史的な背景
前述の通り、「ダイバーシティは良い」「ダイバーシティは悪い」といった偏った二局論では捉えにくいことに加えて、ダイバーシティが注目される歴史的な背景も様々な文脈で語られることが多いことが、どうも「ダイバーシティ」を複雑にしている節もある。
日本も欧米も、人種や性別といった属性によって不要な差別を避けるといった文脈で「ダイバーシティ」を語る一方で、効率的効果的な営業活動をする上ではむしろ属性を区分して極端に言うと差別することを「ダイバーシティ」と捉えることもある。また全く違う観点では、イノベーションを起こす為には、様々な価値観を交わらせることで、既成概念を排除することや新たな気づき・発見を得ようという文脈で「ダイバーシティ」を語ることも増えてきた。
やはり、多様性にも同一性にもそれぞれ一長一短があり、何を同一視し型に嵌めた方(要は属性で捉える)が良いのか? 何を人はユニークな存在と捉えて多様さを確保する(要は属性で捉えない)のか? といった部分的な両立が重要なのだ。
差別は良いのか? 区別なら良いのか?
こんな会話をしたこと、聞いたことはないだろうか? 「差別は良くないけれど、区別なら良い」といった言葉遊びを色んな場面で見聞きしたことはないでしょうか? 当然僕自身も例えば男女・例えば人種といった属性だけを理由に不要に優遇・劣遇すること絶対に避けるべきだと考えます。一方で、使う言葉・表現を変えただけで、差別ではなくなるかのような言葉遊びには、差別に過敏であることは大切に思いつつも、本質的な捉え方を見失っているように思えてなりません。
それは、人を区別すること(属性ごとに分けること)によって、差をつけることによって、効率・効果といった工夫が生まれ、そしてその恩恵を享受できることが多分にあるからです。例えばですが、男女といった性別を区分することにより、お手洗いなどを分け、異性が同じお手洗いを使うよりも心理的な抵抗感が和らいだり、化粧室が性差によって充実度が異なっていたりもあるでしょう。これを「ダイバーシティ」が重要だから、異性でも差をつけないことを声高に言ったところで、むしろ反感を買いそうなものです。映画館であるような、レディースデーやシニアデーも同様で、戦略的に差別することによって購買意欲を高める工夫かと思います。
SEKAI NO OWARIの『Habit』という曲の歌詞には、人を分類・区別する習性を示唆する一節があるのですが、僕はこの曲を聴くたびに「ダイバーシティ」の難しさが頭に過ぎります。人は集団生活において、便利がゆえに、人を属性に区分して捉えがちです。男女もそうだし、年代もそうだし、会社においては、職種や等級、部門なんかもそうでしょう。区分して捉えた方が、群として物事を便利に考えやすいからです。あまりこれを否定しない方が良くて、むしろ否定するならば無意識に発生する偏見ですね。これは危険で、「男はこうだ」「女はこうだ」「シニアはこうだ」「若者はこうだ」などと属性に応じた印象が偏見として凝り固まってしまうと、そうではない人に対しても間違った言動をしかねないということです。これが、本質的に捉えるべき「ダイバーシティ」でして、群として属性を効率的・効果的に利用するものの、その属性ごとにある統計的な傾向が、すべての人には当てはまらないことを想像していくことが、大切なんだと思います。
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君たちったら何でもかんでも
分類、区別、ジャンル分けしたがる
ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか
この世の中2種類の人間がいるとか言う君たちが標的
持ってるヤツとモテないやつとか
ちゃんとやるヤツとヤッてないヤツとか
≪Habit 歌詞より抜粋≫
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平等が良い? 公平が良い?
これも難しい問いですね。「平等」「公平」と言った言葉は、その言葉単体で見ると誰しもが反論なく大切だと答えると思います。「多様な人を認めるためには、平等であるべきか? 公平であるべきか?」こう問うと皆さんの考え方にも、捉え方に差が出てくるのではないでしょうか?
多様性は「平等」のようにも映ります。どんな人であっても、その属性によって差別することなく、機会を均等に与えることは、素晴らしくも映ります。ですが、現実の世界においては、すべての機会を平等に与えることはできません。残念ながら、すべての人が同じ学校には行けないし、同じ会社には入れない。同じポストに配属することもできないし、同じ給与待遇にすればまた違った支障も出ることでしょう。もし仮に現実世界で平等が実現するならば、それはもはや究極的に同一性の高い世界となることでしょう。なので、多様性が高いということは平等のように思えますが、むしろ同一性が高いとも言え、すべての人を画一的に捉える世界こそが、究極の平等だとも言えます。皆さんはこんな世界を望みますかね?
では、「公平」はどうでしょう? 「公平」も「平等」と並んで耳障りの良い反論の出にくい概念ですが、正しく理解すると、要は皆さんが嫌いな差別をするということです。僕自身も「公平」という概念は大切にしながらも、「女性管理職比率を男性同様にする為、評価で下駄を履かせる」「障がい者だから、価値発揮如何に関わらず、健常者と報酬を同じにする」といった考えには賛同できないです。やはり、良い差別にはならないと考えるからです。
ここで大切なのは、「平等」や「公平」も「平等か否か」「公平か否か」という二局論で捉えることにはあまり意味はなく、何に対しては「平等」「公平」であるべきかと言った部分的な最適選択を取ることや、その差別を属性などで捉えるものではなく、極力実質的な支障・ハンデキャップに準じて公平にケアすべきかどうかを決めることが重要だったりします。全てを平等にすることは現実的には出来ないですし、公平を重視すべきことに対しては、属性ではなく一人ひとりに対して公平であるべきだからです。
以下は一例であり、当然ながらその考え方には会社などの集団組織の考え方が反映される為一律ではないですが、何に対してどういう考え方で「平等」「公平」にするか否か、その差別をすることによって集団組織はポジティブに機能するかが、「平等」「公平」を考える上で、重要ということが僕がお伝えしたいこと。
D&E&Iをを阻害するのは?
最後にInnovationについても触れておきます。前述の通り、ダイバーシティ・多様性の有意義性は、多様な人・多様な価値観・多様な経験などが、交わり合うことによって新たな気づきや発見をすることも、文脈の一つとして語られることが多くなりました。今、ダイバーシティリテラシー教育を会社を挙げて行う企業もだいぶ増えましたが、男女や年齢といった差別の話で捉えている企業はもしかするとD&E&Iを表面的に捉えているに過ぎず、多くの会社はInnovationを目的にダイバーシティの有効性・可能性を考えています。
日本の企業は特に、年功序列もあり転職頻度も欧米と比較するとまだまだ少なく、そもそも島国であることや単一国家であることから、その価値観・美徳感も均質性が比較的高く、既成概念が固定化しやすい国であるとも言えるかと思います。ビジネスにおいても、真面目、謙虚、我慢強い、勤勉、協調性といった国民性から商品・サービスの品質を工夫・努力によって高めていくことは得意なものの、既成概念を脱して新たな発想転換により非連続な成長を遂げるといったこと(これをInnovationと呼ぶ)は苦手なのかもしれません。
裏を返せば、Innovationで重要なのは、新たな視点・新たな気づき・新たな発想をいかに取り入れるかが大切で、その多くは新たな着眼点を交じり合わせる(包含・Inclusion)ことで生まれます。人はそれぞれユニークであり、その価値観・視点・強みは異なることを理解し、その多様性を交わらせることで新たな気づき・発見を得て、既成概念を脱する。こう捉えると、多様性の必要性や価値は格段に重要視されるでしょう。
一昔前のTV番組制作会社では、子ども番組の制作企画を、深夜に男性だけが集まって夜な夜な議論していたようです。子育てもせず、深夜まで残業ばかりしている男性が集まって議論しても、新たな気づき・発見は得られるわけがありません。今はそうではないでしょうが、そんなこんなしているうちに、子どもはTV番組を見ず、もっと面白いYouTube番組に夢中なわけです。これも一つのInnovaitonが既成概念を淘汰した例かと思います。
では、「ダイバーシティ」や「インクルージョン」を阻害するものは何でしょうか? 当然ですが、新たな気づき・新たな視点を阻害するのは、凝り固まった既成概念であり、無意識に生まれる偏見(Unconscious Bias)です。人は残念ながら、無意識の偏見を持ち得ています。それは、子どもの頃から家庭や学校などで自ずと植え付けられてしまいます。それは偏見を持つことで未来起こることを予測しやすくしている自己防衛本能と言っても良いかもしれません。が故に、無意識の偏見を完全に排除することは難しいかもしれませんが、時より立ち止まり、不用な区分や統計的傾向・慣習を取り除いて捉えることを意識し癖づけすることをオススメします。そうすることによって、皆さんは今まで以上に視座高く・視野広く、色んな可能性を排除せずに生きられるからです。なぜならば、未来は自身の経験則の延長にはなく、予測できないことも含めて変化し続けているからでもあります。
最後に、まとめると…
結局、お伝えしたいことを文章にすると、長々と長文になってしまいました。ここまでご覧いただいた方には感謝でしかありません。今回、お伝えしたかった内容をまとめると↓ こんな感じです。
- 元来、人は多様であり、人それぞれがユニークな存在である。
- 合理化・効率化が進むにつれて、同一化→差別や区別をしてきた経緯がある。
- 結果、多様性・同一性にも一長一短あり、同一視や区別するかを見極める必要がある。
- 平等や公平は、その必要性や「何に対して」平等・公平なのかが重要。
- 世の中が変化する以上、人も考え方を変化・変革する必要がある。
- 変化・変革をする上で大切なのは、新たな気づきや着眼点。
- 人が持つ、多様な価値観(能力・経験含む)を交わらせることが重要。
- 無意識な偏見・思い込み・不用な慣習が、新たな気づきや着眼点を阻害する。
簡単ですね。伝えたいことは非常に簡単なはずなのに、ダイバーシティという言葉ができて、世の中を流通していくと、なぜか複雑になってしまったり、捻じ曲がって伝わってしまったりするのが残念でなりません。是非、この要約を読んだ上で、再度この要約に至った経緯としてもう一度最初から一読いただけると嬉しいです。
さて、記事の冒頭にあるメインビジュアル写真の話だが、実は高校の同窓会の写真である。同じ年齢で、同じ時期に同じ高校に通い、仲良くもしていたので、やはり同質性が高いとも言える。が、大学からはそれぞれの道に進み、2年ぶりに合流した。同窓会と言っても思い出話はせず、老眼・記憶力低下といった年齢相応の話から、それぞれの会社での世代間ギャップの話に変わり、最後には人生100年時代・110年時代を見据えた話まで、大いに気づきや発見があった会だった。はて、これを同質性が高いと捉えるのか、多様性が高いと捉えるかは、自分たちの捉え方次第だ。僕にとってはとてもダイバーシティな場でした!^^