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The Entrepreneur #3 柴田 明雄氏(元プロボクサー)~闘志3.0 大きな夢に立ち向かい 大きな夢を叶えるために必要なこと~

社内外の様々なアントレプレナーをお招きし、セプテーニグループに所属するひとりひとりがそれぞれの「アントレプレナーシップ」について、考えてもらう場をつくりたいと企画された”The Entrepreneur”。

第三回目のアントレプレナーは、元プロボクサーの柴田 明雄さんです。

保育士からプロボクサーに転身し、日本及び東洋太平洋チャンピオンにまで上り詰めたという異色のキャリアを持つ柴田さん。大きな夢に立ち向かい、大きな夢を叶える方法について、モデレーターの株式会社サインコサイン代表 加来とともに、パネルディスカッション形式でお話いただきました。


柴田 明雄
神奈川県横浜市出身。
第30代・第33代日本スーパーウェルター級王者。
第28代OPBF東洋太平洋スーパーウェルター級王者。
第59代日本ミドル級王者。
第45代OPBF東洋太平洋ミドル級王者。
ワタナベボクシングジム所属。
現在、新松戸ボクシング&フィットネスジム「SOETE」代表。


1.夢に立ち向かう“闘志”をデザインするためのルールや再現性に迫る

<まずは自己紹介から>

 13年間、ボクシングをやってきて“スーパーウェルター級”と“ミドル級”で日本と東洋太平洋(アジア圏)のチャンピオンになり、二階級制覇をしました。4年前に引退し、その後は、保育士の資格を持っているので保育士として働いたり、ボクシングのトレーナーの修行をしながら、2年前に千葉の新松戸でボクシング&フィットネスジム「SOETE」をオープンしました。今では約140名の会員の方に通っていただいています。「SOETE」はプロボクサーを育てるようなジムではなくて、ダイエットや肉体改造、ストレス発散など、一般の方向けのボクシングジムで、会員の中には女性の方も3割くらいいらっしゃいます。もちろんボクシングが強くなりたいという方も通ってくれていますが、幅広いニーズに応えられるようなジムにしていこうとしています。

今日はみなさまへ自分なりにボクシング人生をお伝えする中で、少しでもプラスの何かを感じてもらえるようなお話ができたらと思います。頑張りますので、どうぞよろしくお願い致します。


<大きな夢への物語の「始まり方」~ボクシングを始めてみて、向いていると気づく~>

―加来(以下太文字):柴田さんは最初からボクサーを目指していたわけではなかったとのことですが、どうしてボクシングを始めることになったのでしょうかー

 僕はボクシングを始めるのは少し遅くて、20歳の時から始めました。それまではサッカー・野球・バスケなど団体競技をやっていました。そこそこ運動神経も良かったので中学生の時に所属していたバスケ部では全国大会で3位にもなったし、その後高校もバスケで有名なところに進学していたので、バスケで食べていけたらと思っていた時期もありました。でもプロになるイメージがあまりつかなかったので、高校生で進路に悩んだ結果、ずっと子供が好きだったので三年制の保育士専門学校に行きました。

専門学校の三年生になると、年に2回の実習しかないのに多額の授業料がかかり、その専門学校の資格発行元の大阪の短期大学の通信教育だと、学費を1/10に抑えることができることが分かったため、通信教育に切り替えて保育士免許を取ることにしました。その時は学校にほぼ行かなかったので時間がいっぱいあったのですが、当時流行していた「ガチンコファイトクラブ」というテレビ番組の3ヶ月でプロボクサーにする、という企画を見て、「あ、3ヶ月でプロになれるんだ…」と思ったんです。そこで「よし、そうしたら、卒業までにプロになって、今までのスポーツ人生に区切りをつけて、ちゃんと保育士になろう」と思いボクシングを始め、プロテストを受けました。

 どうしてボクシングだったのかというと、今まで団体競技をずっとやっていて、勝った時の嬉しさをみんなで分かち合ったり、負けた時の悔しさをみんなで分け合ったり、すごく素敵だとは思っていたのですが、欲が出てきて、次に挑戦することに関しては、勝った負けたも全部ひとり占めして、全部自分で負いたいなと思い、個人競技のボクシングを選びました。

また、はじめの一歩というマンガもずっと読んでいたので、その影響もありました。小学校5、6年生の時にいじめにあったこともあって、はじめの一歩の主人公が自分でいじめを克服するところとか、自分にリンクする部分もあり、ボクシングを選びました。

そして、保育士の専門学校卒業までにチャレンジしたプロテストも合格し、「よし、これでもう区切りだ」と、やめようと思った時に、一緒にやってくれていたトレーナーが「せっかくプロになったのだから、1試合やってみればいいじゃないか。」と誘ってくれて、「まぁ、そうだな。1試合だけやろうかな。」とプロ初戦に挑みました。

 結果は試合開始36秒でKO勝ちしました。その時に応援に来てくれていた友達やボクシングジムの方たちがみんなすごく喜んでくれている姿を見て「嬉しいな」と思い、そこからボクシングを続けることに決めました。


ただ、やはり最初はボクシングだけで生活していくのは難しかったので、保育士の仕事で収入を確保しながら、合間でトレーニングや試合の練習をしていました。勤めていた保育園が部屋を貸してくれたので、生活面ではとても助かっていたのですが、24時間営業の保育園だったので、時には深夜対応が発生して眠れないこともありました。途中からやっとスポンサーがついて、そこからはファイトマネーで食べていけるようになったので、ボクシングの収入が増えたことをきっかけに保育士の方はやめて、ボクシングに専念するようになりました。

― 確かにボクシングに限らず、夢を追い続けるには、最初のころは一本に絞らずに他の職業とのパラレルワークから始めることも一つの手段ですよね。
柴田さんは、13年間、ランカーとしてボクシングを続ける中でどういう事を目標にしていたのですか?最初から「チャンピオンになりたい」と思ってそこに向かっていったのでしょうか? -

いえ、「目の前の試合を一つ一つ勝っていこう」と思っていました。「来た試合は断らない」と決めていたので、お話が来た試合について、一つ一つやっていこうと思っていて、最初はチャンピオンになる事は自分とは違う世界の話だと思っていました。

<大きな壁にぶつかったときの「這い上がり方」~「振り返りたくない過去」をつくらないという強い思い~>

― 「来た試合は断らない」という事につながると思うのですが、ここで少し、柴田さんに関する記事を紹介します。―

【記事一部抜粋】
村田より5歳上の柴田は、ここまで決してエリート街道を歩んできたわけではない。いや、むしろデビュー直後は負けが続き、大した期待もされていなかった。壁にぶつかり、跳ね返されることを繰り返しながら、コツコツと自分を磨き、ここまで這い上がってきた苦労人だ。 有名なわけでもない。コアなボクシングファンならともかく、普段はボクシングを見ないお茶の間のファンは村田のことは知っていても、柴田の名前を初めて聞く人がほとんどだろう
引用元:現代ビジネス | 8.25 村田諒太vs.柴田明雄、勇気あるマッチメイクに拍手!
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/36352?page=2


―世間で柴田さんの名前が知られるきっかけとなる大きな出来事として、ロンドンオリンピック金メダリスト・村田諒太選手のプロ転向デビュー戦を受けた事だと思います。結果として敗戦したわけですが、この注目されている試合での敗戦の後も、どうして諦めずにボクシングを続けられたのでしょうか。 Twitter上でも「あの村田デビュー戦のショックから良く這い上がったと心から尊敬する」といったコメントなどが見られましたが、いかに逆境から這い上がれたのかという事や、デビューのころから考えていた事も含めて伺えたらと思います。ー

村田くんとの試合は、良いところを見せられない、本当に情けない負け方をしたのですが、その後ネット記事にも叩かれ、ブログに「もうボクシングやめろ」というメッセージが来たりと、世間から散々叩かれました。それから1ヶ月くらい家にこもって、外に出たくなくなって、この先どうしようかな、やめちゃおうかなと考えていた時に、先ほど話した「いじめ」の体験を思い出して。実はいじめられていた当初はずっと「自分はこういう運命なんだ」と思って抵抗はしたことなかったんですね。でも、一回歯向かってみたら、相手がアッサリいじめを辞めたんです。

その経験を思い出したときに、このまま叩かれたままだと悔しいなと、ここでまた立ち向かわなければと思いました。そして何より一番に思ったことは、「諦めた自分」という過去を作りたくなかったということでした。

自分を嫌いになりたくないというか、このままボクシングをやめてしまったら、ここまで続けてきたボクシング全部を嫌いになってしまうなと思って、それは絶対に嫌だと思いました。振り返りたくない過去があると、その時の事を思い出す事が辛くなってしまうし、そういう過去を作りたくなかったので、そこからまたトレーニング方法も変えて、一からやり直す気持ちで続けていって。村田くんとの試合はデビュー戦のためベルトはかかっていなかったので、その試合に敗戦した後も東洋太平洋チャンピオンのベルトの防衛戦で戦い続けていきました。村田くんという目標もできて、村田くんとまた試合をしたいという気持ちもモチベーションアップにつながって、続けることができました。


<大きな夢の「終わらせ方」~ボクシングの辞め時。それは始める時にはすでに決めていた。~>

― 柴田さんが逆境から立ち上がり、這い上がって来られた背景には、過去のいじめの経験から学んだことや、諦めた過去を作って、自分を嫌いになりたくないという強い思いがあったのですね。その後もボクシングを続けられていき、4年前に引退されていますが、引退は「こうなったらやめる」と撤退ルールを決めていたのですか。ー

はい。ボクシングは見ていただいて明らかだとは思うのですが、体へのダメージが凄いんですね。実際に先輩に滑舌が少し悪くなったりする方もいましたし、僕自身眼底骨折をした事もあり、その時は失明するかもしれないと医者に言われたこともありました。頑張る事が美徳ではない世界だなと、健康を害しては元も子もないなと感じていて。

それで撤退ルールとして、

①勝率がイーブン(例.5勝5敗)になったら引退
②三連敗したら引退

と決めていました。

その後、②に関しては村田諒太選手との試合の後からは、「1度でも負けたら引退」へと変更し、6連勝したのですが、その次の試合で負けベルトを失い、引退を決めました。

―撤退ルールを決めることは、自分を嫌いになりたくないという事に繋がっているのかと思います。「自分を嫌いになりたくないから、諦めないで続けなきゃ」だけでは本当に辛くなってしまう人もいるかと思いますし、だからこそ引き際の潔いラインを持っていれば、徹底的に自分を嫌いにならなくて済み、そこまでは続けようと思えるのではないかなと思います。-

<大きな夢の「立ち向かい方」~壁を乗り越え続けられたのは先輩と仲間がいたから~>

―撤退ルールもある中で、続けているうちにいくつか壁にぶつかったこともあったかと思うのですが、どのようしてそれを乗り越え続けていったのでしょうか。自力だけでなく他者の力にも助けてもらったことなどもあったのでしょうか。ー

僕と同じジムに、世界チャンピオンで11回の防衛にも成功した内山高志さんという憧れの先輩がいます。

あるとき、試合で二連敗し、撤退ルールで決めていた三連敗まであと一回次負けたら引退という、背水の陣の状況の時に、次の試合の話がきました。その対戦相手は、僕と戦う一つ前の試合で敗戦して、『東洋太平洋チャンピオン』を奪われた方で、「次の試合に勝ったら再度日本チャンピオンや東洋太平洋チャンピオンにチャレンジできる」という状態の選手でした。つまり簡単に勝てるだろう相手として、僕を指名してきており、僕はその時ランクも無かったので、立ち位置としては、いわゆる「咬ませ犬」として依頼がきた状況でした。

ジムの人が電話で「柴田、断ってもいいんだよ」と言ってくれたのですが、自分で決めていたルールに「来た試合は断らない」というのもあったので、試合を受けることを決めました。でも下馬評では90%柴田が負ける、と書かれたりしていて「三連敗してしまうかも」「このままではいけない。練習が必要だ。でもどうしたら良いか分からない。」と思っているときに、内山さんに「柴田、合宿連れて行ってやるよ。」と声をかけてもらって、内山さん軍団の合宿に参加しました。


その練習で驚いたのは、走りこみで僕が疲れすぎて吐きそうになっているときに、内山さんは全然平気な様子で、「まだまだ走るぞ!」と走っていたんです。

内山さんとの力の差と練習量の差を目の当たりにして、自分のいままでの練習では全然だめだなと思って、そこからメニューを見直して、練習に打ち込みました。

その結果、さきほどの試合は3ラウンドKO勝ちをすることができました。

内山さんとの合宿がなかったら、チャンピオンにもなれてなかったんじゃないかなと思います。あの合宿で素直に練習方法を見直してよかったなと思いました。

―ボクシングの世界は師弟関係はありますか?-

そうですね。大体の人が誰か頼れる先輩に教えてもらっていると思います。内山さんの合宿に行ったメンバーは、内山さんを除くと3名いたのですが、1人が世界チャンピオン、僕ともう一人は東洋太平洋と日本チャンピオンになっていますし、強い人の背中を見る事は大切だなと思います。

例えばみなさまの周りの人でも、もし見本にしたいなと思う先輩がいたら、どんどん聞いたり、教えてもらうということは大切なことなのではないかなと思います。

―キャリアが重なってくるとそういう機会も少なくなってくると思いがちですが、もう一度初心に帰ることも大事だと思いました。柴田さんは、なぜ自分がチャンピオンになれたと思いますか?-

やはり内山さんが合宿に誘ってくださったこともそうですけど、ジムの人や友達などの「周囲の応援」があったからだと思います。僕の応援のためだけに、大切な時間やお金まで使ってくれて、勝利を一緒に喜んでくれて。それが本当に支えでした。「みんなが喜んでいる顔が見たい」と思ってやっているので、その点を考えるとボクシングは個人競技でありながら、結局、団体競技と同じ部分もあるのかなと思いました。

個人競技でも、一緒に立ち向かってくれる仲間の存在は大事だなと思います。

―周囲の応援をポジティブに受け止められるその素直さと謙虚さも才能のうちなのかなと思います。-


<大きな夢の先にあるもの~夢が終わっても続く人生の歩み方・新たな目標~>

―ボクシングを引退してもまだ人生は続いていくので、柴田さんの大きな夢の先にあるものを教えてもらえたらと思います。柴田さんがこれから目指していくものや挑戦したいことは何ですか?-

引退後、自分でジムを開いてみて、アンケートに「素敵なジムを作ってくれてありがとうございます」と書いてくれるお客様がいたり、自分のやっていることが、誰かの役に立っているということがすごく幸せだなと感じています。なので、一人でも多くの人に「良かった」と思ってもらえるコンテンツを提供し続けていきたいなと思っています。

そして、保育士をしていた時の恵まれない子供たちとの出会いから、社会貢献活動として、ボランティアで児童養護施設をまわるなど、ボクシングを通じて子供たちに何か提供していけたらと考えています。

また、最近テニスを始めたのですが、初めての試合でご年配の方に負けたので、まず勝つことを目標に練習していきたいと思っています(笑)。

―――――


パネルディスカッションのあとは、参加者それぞれが夢について考えるワークショップを実施しました。

下記の質問が書かれたワークシートを埋め、その後近くの人と内容を共有しアドバイスや意見交換など、自由にコミュニケーションを取り合いました。

Q. あなたにとっての大きな夢 = あなたのなりたい自分は?
Q. そう思うのは、なぜ?
Q. その物語は、どう続ける?
Q. それを諦めるとしたら、どうなったとき?
Q. それを叶えるために、足りないものは?

共有の時間では、柴田さんが参加者と話をしたり、質問に答えたりしながら、夢の叶え方について一人ひとりがより深く考える時間となりました。


2.編集後記


謙虚な人柄で、先輩や仲間を大切にする柴田さん。会場の雰囲気も柴田さんの人柄で和気あいあいとし、質問もたくさん飛んでいました。夢への物語について、壁の乗り越え方として先輩や仲間ライバルの存在が重要であることや、続け方としてはすぐに一本の道に絞るのではなく、パラレルワークで収入を確保しながら夢への道を維持するという方法など、自分に置き換え、実践できる内容を伺えました。撤退ルールや、大きな夢の後にも人生が続く事、またその後に更な大きな夢に向けて努力する事など、実際に夢を叶えたアントレプレナーから伺うと重みがあり、学びがありました。


柴田明雄さん、ありがとうございました!

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