SEKAISHAには2020年2月現在、11名のインターン生がいます。
これは、SEKAISHAインターン生が見ている、セカイのお話。
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あなたは信じることに自信がありますか
「信じる」という言葉は意味が曖昧で、人によって定義がさまざまです。「信用する」や「信頼する」と分けて考える人もいるでしょう。
あなたにとって、「信じる」とはどのような行為ですか?
また、どのような人なら、「信じる」ことができますか?
普段何気なく生きていると、この問いに対して、「なにそれ、そんなのその時の気分とか状況次第だよ」と、答えるかもしれません。
しかし、この「信じる」ということについて深ぼって考えてみると、意外と奥深いのです。少なくとも、誰もがしてきた思春期のたわいもない悩みよりは、とても有意義です。
冗談はさておき、人類の「信じる」という素晴らしい行為について、考えてみたいと思います。
誰なら信じることができますか?
皆さんは「自分の親」のことを信じることはできますか?
子供から見た「親」の見方は人によってさまざまですよね。「親にとって子供はみなかわいい」と考える人もいます。うっとうしく感じた親の行動も、今思えば愛ある行動だったのかもしれません。
しかし、本当に親は子供のことを常にちゃんと考えて行動しているでしょうか。
世の中には、「子供に暴力を振るう親」「子供の口座からお金を盗む親」もいます。成人前の子供にとって親は身近な存在ですから、疑っていたらキリがないですし、一緒に生活するだけで疲れてしまいます。信じるの逆「疑う」という行為にもエネルギーがいるのです。
このように、人を信じることは「経験則」的に信じる場合と、「物理的な要因」で信じざるを得ない場合があると考えられます。
「信じる」ということは、ある意味「省略の概念」に則っている側面もあるのかもしれません。
親以外の他者に対してはどうか
私は2歳の頃から一緒にいる幼馴染がいます。その幼馴染はもちろん私に嘘をつくこともありますし、騙すこともあります。しかしなぜかその幼馴染を、私は「信じる」ことができます。なぜ嘘をつくこともある幼馴染を信じることができるのでしょうか。
一般的な「信じる」は、経験則に則っていることがほとんどです。「今まで大丈夫だったから、次も大丈夫だろう」と。しかし私は、その幼馴染に騙された数が普通の友達よりも多いです(付き合いが長いからかもしれません)。
ある日、幼馴染は何の文脈もなく、ノリでも騙しでもない会話中に突然「自分は幽霊が見えたんだ」と言いだしました。それを聞いて皆さんは信じますか?
私は信じます。なぜなら普段から巧みな嘘で私を騙そうとする友達が「明らかに嘘だとわかる嘘」を私につくとは思えないからです。私を騙そうとしているなら、もっと工夫を凝らしてくるはずです。
私の幼馴染に対する「信じる」は、必ずしも経験則には依拠せず、かといって物理的でもなく、背理的に導かれています。
私はこの時から「信じる」ことの奥深さを感じ、「信じる」ことに興味を持ちました。
信じることはやっぱり良いこと?
その友達は、教室に人影が何十人もいたと言っていました。その高校の霊感の強い友達と一緒にその教室を覗くと、確かに人影が皆見えたらしいのです。その友達はお坊さんにお祓いをしてもらい今はもう見えないのですが、その話は私のセカイを彩り豊かにしてくれました。
例えばホラー映画を楽しめるようになりました。死霊館、エクソシストなど実話を元にした映画はありますが、それを何倍も楽しめるようになりました。信じる、ということに話を戻すと、面白い話が、悪魔は悪魔を信じる人の元に現れるようです。
死霊館のセリフにあったのですが、まず悪魔は軽く自分の存在を知らせ、人間を怖がらせ、心が弱ったところで襲ってくるようです。ですので皆さんより私の方が悪魔に襲われる確率は高いというわけですね。悪魔に襲われるのはいつも敬虔なクリスチャンではないですか。そこでさらに深掘りしていくと、信じる、という行動のシンプルな矛盾が出てきます。
皆さんは悪魔がどのような見た目かを知っていますか?有名なのはヤギのツノが生えたものでしょうか。さてでは鬼はどうでしょうか。姿は違いますよね。これは仏教とキリスト教の違いでしょう。では宗教の数だけ恐怖が存在するのなら、たくさん新興宗教が現れれば恐怖が地球に溢れかえってしまいますよね。おかしいです。また、お坊さんが悪魔の住む家にすんだ場合一体どうなるのでしょう。わけがわからなくなってきますね。
この矛盾とも言える状態は信じる、ことの不確実性を証明しています。より強く信じた宗教の方が勝つのでしょうか。どうでしょう。もちろん私は有神論者でもあります。神社に100度参りをしたこともあります。
しかし、この「信じる」ということの不確実性の確実性は無謬的で他ならないと思うのです。
信じることはセカイを変える
私はこの幽霊の話を聞いてから上記の思考実験を思いつき、自分のセカイが変わりました。私はこのように、語義的にも形而上学的にも「信じる」という言葉を捉え、自分に自信を持つようにしています。
だからなんだということなのですが、こんなことを考えている人も中にはいるよってことです。もちろんSEKAISHAで働く他のインターン生も、皆さまざまに自信を持っています。
誰を信じるかよりも、誰と出会うか
あなたが仮に大学生なら、普段どんな人に会っていますか?
毎日決まったメンバー、決まった教授、バイト仲間、サークル仲間など、意外と閉鎖的なコミュニティに依拠していませんか?
同じ大学の有名人にはすれ違ったことしかないし、コミュニティの面白い人は実は前のコミュニティの人と同じレベルだったとか。大学になって同学年の人数は増えて、いろんな面白い人にいくらでも出会えると外からは思われがちですが、意外とそうでもないのではないでしょうか。
新たなセカイに飛び込むには環境を変えるなど、それ相応の行動が必要です。
それさえできれば自分が「今」どのような環境に今いるかは、あまり関係ないと思います。
この記事を読んでセカイを広げたいと思った人は、ぜひSEKAISHAの今後の活動もウォッチしてください。