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「社会を良くするために何ができるか」東北復興支援店の出店が自分にもたらしたもの。【社員インタビュー vol.5】

―就職活動のとき、oh庭yaに興味をもったキッカケを教えていただけますか?

水野:就活の時期は、グリーンビジネスや環境系の仕事ができればと思い、リクナビで探していて、oh庭yaに出会いました。
自分自身、結果が出ず、就活に行き詰っていていた時期でした。会社説明会に行ったときは、そんなテンションで。でも、oh庭yaの説明会に参加したときに、「うわぁ、これは面白い!」と感じたことが強く印象に残っています。
当日は、社長が登壇され、話をしてくださったのですが、それが強烈なインパクトでした。

―実際に入社してからは?

水野:名古屋支店に配属になりましたが、正直大変でした。社員が減った時期で、物凄くバタバタしていたのを覚えています。そんな状況でしたので、入社当初はとにかく必死というか、目の前をこなすしかない…そんな感じでした。

同期もいましたから、同期同士で「いつ独り立ちできそうか?」というような話もしていましたが、僕自身はそれどころではなかった、というのが本音です笑

それから徐々に人が増えてきて、一気に賑やかになっていきました。

自分自身としては、1年目ということもあり、作業メインで動いた1年でした。
ただ、本当に目の前のことをこなす…そんな日々になっていたので、1年目の終わりくらいは、正直、かなり苦しかったのを覚えています。

―その苦しさは、どう乗り越えたのでしょうか?

水野:ちょうどその頃、東日本大震災が起こりました。
学生時代にボランティア活動をしていたこともあり、「何かできないか?」と考えました。そこで、ボランティアの企画書をつくり、社長に提出しましたが、それを“ボコボコに”されて笑

―ボコボコにされたとは?

水野:学生気分の抜けていない自分の甘さを叩きのめしていただいた・・・そんな感じでした。自分の仕事できっちり結果も出していない。店舗の業績もパッとしない。本業の企画を立案するわけでもない。それなのに、自分のやりたいことだけをやる。しかもそれがボランティアで、そのために会社が金を払ってくれと言う。それはひとりの社会人として無責任だろうと叱られました。でも、そのおかげで、自分の考えの浅はかさを知ることができました。かなり打ちのめされましたが笑

―打ちのめされたその後、どうしたんですか?

水野:実はその直後、4月くらいに社長がプライベートで復興支援のボランティアに行かれる機会があり、お声がけ頂いたんです。
そのときは、ありがたかったですね。打ちのめされていた自分を切り替えさせてくださって。ですので、即答で「行かせてください!」と言いました。

―ボランティアに行かれて、いかがでしたか?

水野:正直、想像を絶する光景でした。

それと同時に、ボランティアに来られている色々な方々と一緒に力を合わせて仕事をすることは、凄い力になるんだな…ということも実感できました。

そして、仲間の助け、それも大きかったですね。当時、自分が所属していた名古屋支店のメンバーが中心となって、休日返上で仙台での活動を手伝いに来てくれたんです。ひとりでは何も出来なかったと思いますし、仲間の力というのをリアルに感じました。

ですから、それがキッカケで、会社というものを通して世の中を良くしていくことができる、会社にはそんな力がある、そんなことを感じさせてくれる機会になりました。

ボランティアから戻った後、まずは、本業で結果を出すことからだ、ということで、武者修行という形で関東の店舗に2ヶ月遠征しました。

それから名古屋に戻り、しっかり売上を立てること、足元の数字をつくる、まずそこを強く意識して仕事に取り組みました。

―そこから、どのような経緯で仙台に行かれることになったんですか?

水野:キッカケは、ボランティアに伺った方の知り合いの知り合いの方が、石巻の小学校の校長先生をご紹介してくださったことでした。
その小学校は、津波による塩害で、ほぼ全ての樹木が枯れていました。そのため、枯れてしまった樹木を抜き取って、新しい樹木を植えたい、そんなご相談を頂きました。

そのため、9月頃に、石巻に現状を見に伺わせて頂きました。
学校の1階部分は凄いことになっていましたし、校庭は、枯れ木だけが残っている状況でした。

そのときは、植え替えなければどうにもならないもの、回復させることができるものを見極めたり、植え替えにどのくらいの労力がかかるかを計ったり、そういった、いわゆる現地調査的な動きをしていました。

―その頃に、仙台に出店する話が持ち上がったんですよね?

水野:その前後ですね。
校庭は津波による塩害で、土壌がどうにもならない状況でしたから、仮に土を全て入れ替えたとしても、なかなか根付かない可能性が高い。でも、植えたことで満足するようなボランティアでは意味がないですよね。
だから、仮に植え替えるとしても、その後のアフターフォローができないと意味がないという話になって。ほんとうに役立つとはどういうことか?それを考えたときにどうあるべきか?そう考えたときに、もしこのプロジェクトを受けるならば、店舗を出さないと意味がない、そんな話になったと記憶しています。

とはいえ、当時の石巻には、店舗を出せるような物件はなくて、それで出店したのが今の宮城野区にある仙台支店です。

―仙台行きを決めたときは、どんな流れだったのですか?

水野:社長に呼ばれて、仙台のことについてお話をいただき、行くという決断をしました。

―社長からは、どんな風に言われていたんですか?

水野:行く前から社長におっしゃて頂いていたのは、「きちんと本業で結果を出しながら、ボランティアをきちんとやる、それが大切だ」ということでした。ボランティア自体は良いことだけど、それを赤字のままやり続けるというものではない。きちんと売上・利益を立てた上で、それを被災地に還元すべきだ、というお話を頂いていました。理想論だけではダメだと。

実際に、異動した当初はお客様もゼロでしたから、大変ではありましたが、なんとか達成しないと…そんな想いで取り組んでいました。

―たしかに、大切なことですよね。

水野:でも、凄く大変でした。
まだ社会人になっての経験が2年にも満たない状況。ハコはつくって頂きましたが、中身は自分でつくっていかないといけない。だから凄くプレッシャーもありましたし、逆に出来なかったらかっこ悪いな…というのもあったので、絶対に黒字にし、ボランティアもちゃんとやってやろう…そんな想いで必死でした。ですから、最初の1年はフル回転でした。

―結局、5年おられたんですよね?

水野:そうですね。凄く大変でした。ひとりでやっていた期間が長かったですし。でも、だからこそ、物凄く勉強になりましたし、成長できたのではないかと思います。

誰かのせいにできる環境ではないですから、起こったことは全て自分に起因している。その責任をとらないといけない。一切言い訳はできない。ダイレクトに来るので、本当の良い経験をさせて頂いたなと思います。

あとは、逃げられないという感覚。名古屋にいた頃なら、経験が浅い自分ではなく、別のスタッフがやってくれていたことも、自分でやらなければならない。どうやってやるか、工夫してやらないといけない。できる方法を考えなければならない状況でしたから、そういう意味では少しは成長できたのではないかと思います。

―仙台時代で最も印象に残っていることは?

水野:小学校の校長先生のお宅にお手入れに伺っていましたし、校長先生をご紹介くださった方ともずっと付き合いが続いています。そういった関係性が紡がれる中で、自分自身が少しは宮城県に溶け込むことができた、根付くことができたのではないかな…と感じます。

自分は震災後に来た人間、震災を知らない人間です。ですから、ある意味、「外様」。それでも仕事を通して私を指名してくだるお客様もいらっしゃって、そういったことがあると、少しは宮城県に溶け込むことができたかなと感じることができたかなと。

―仙台を離れることになったキッカケは?

水野:小学校の樹木が根付いてきて、あとは定期的に訪問すれば大丈夫そうな状況になっていました。
そんな折、沼津バイパス店の責任者をやらないかと声をかけて頂き、それがキッカケで離れることになりました。

あとは、今、店長をやってくれている大宮さんがいたこと。安心して任せることができるというのも、自分が異動をする上で、背中を押してくれたことでもあります。

―寂しかったですか?

水野:さすがに笑 5年も住んでましたからね。

―そして、沼津に異動になりました。

水野:ほぼ新店の立ち上げ、そんな状態でした。今後のFC展開に向け、地方都市でどうやってこの事業を成り立たせていくか、そんなチャレンジでした。沼津市自体、20万人くらいの都市。高齢化が進んでいるエリアですから、そういったエリアで形をつくることができれば、今後展開していく上で、FCの方にとっての道しるべになるのかなと、そんな想いで取り組みました。

―1年ですよね?沼津は。

水野:ちょうど1年ですね。

―そして、今春から、名古屋支店の店長になりました。

水野:はい。名古屋支店は多人数の店舗。その環境自体が久しぶりですし、そのトップになるのは初めてですから、新しい学び、新しい経験が積める環境に置いて頂いたと思っています。

それぞれ個性的ですし、皆がその個性を活かせるように、個性を輝かせることができるように…と考えていますし、店長としてそれを導くことができればなと考えています。

―今後の目標を教えてください。

水野:仙台にいた頃から今も変わらず「社会を良くするために何ができるか」という想いは常に頭の片隅にある、というか変わらぬ強い想いです。
それを、oh庭yaの本業でも、別の角度からでも、色々なところで実現できる、「oh庭yaがあるから社会が良くなる」そういった価値があるものを提供していきたいし、していかなくてはいけないと思っています。

―最後になりますが、「こんな人と働きたい」という人、どんな人でしょうか?

水野:逃げない人、です。
逃げても、必ず同じ壁が立ちはだかるものだと思います。
だから、その壁にぶつかったときに、逃げるのか、立ち向かうのか…立ち向かいたいと思える人と働けるといいですね。

自分自身、1年目の苦しいときに、凄く悩んで、でも社長や周囲の支えで逃げずに立ち向かうことが出来て今があります。

ですから、立ち向かう意志がある人とは、「一緒に働きたい!」と思いますし、今度は自分がその背中を押す、支援をすることができたら・・・とも思います。

―ありがとうございました。
株式会社oh庭yaでは一緒に働く仲間を募集しています

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