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『丸の内』ってなんだ?

丸の内の歴史:大名屋敷の街から、日本を代表するオフィス街へ!

東京都千代田区にある丸の内

いまや日本を代表するビジネス街として、多くの企業が本社を構えるエリアですが、もともとは江戸城の城下町だったことをご存じでしょうか?

江戸時代には大名屋敷が立ち並ぶエリアだった丸の内。

明治時代には一度衰退し、その後三菱グループの手によって大規模な再開発が進められ、現在の姿へと変貌を遂げました。

今回は、そんな丸の内の歴史をわかりやすく紹介していきます!

江戸時代:大名屋敷が並ぶ城下町だった!

「丸の内」という名前は、その名の通り「お堀の内側」という意味。江戸時代、このエリアは江戸城の内堀と外堀に囲まれた場所で、たくさんの大名屋敷が建ち並んでいました。

当時の大名たちは「参勤交代」の制度で、定期的に江戸へ滞在する必要があったため、ここに立派な屋敷を構えていたのです。

ところが、明治維新(1868年)によって江戸幕府が終わると、これらの屋敷は不要になり、次々と取り壊されてしまいました。

明治時代:衰退から再開発へ

明治維新後(1868年)、幕府が崩壊すると大名屋敷は不要となり、一帯の建物は撤去されていきました。

その結果、丸の内は急速に寂れてしまい、軍の練兵場や倉庫として使われるようになります。

1887年(明治20年)ごろの丸の内について、明治の文学者・田山花袋(たやまかたい)はその著書『東京の三十年』で次のように記しています。

「丸の内は、いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、むしろ衰退した気分が満ちわたっていて、宮城も奥深く雲の中に鎖されているように思われた。」

この頃の丸の内は、まさに「活気を失ったエリア」だったのです。

しかし、この状況を大きく変える出来事が明治23年(1890年)に起こります。

陸軍がこの土地を三菱社(現在の三菱地所)に払い下げたことで、丸の内の歴史は一転。

三菱はここで大規模な都市開発を進めることになります。

「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれた近代都市へ!

三菱がまず手がけたのは、道路の整備と洋風建築の建設でした。

特に、赤レンガを使った建物が多く建てられたことで、街並みがロンドンに似ていたことから、当時の人々は丸の内を「一丁倫敦(ロンドン)」と呼び、話題になりました。

この頃から、金融機関や商社などが丸の内にオフィスを構えるようになり、徐々にビジネス街としての基盤が整っていきます。

そして、この流れをさらに加速させる出来事が大正3年(1914年)に起こります。

大正時代:東京駅の完成で、ビジネス街として急成長!

1914年、ついに東京駅が完成!

丸の内の玄関口としての役割を担い、全国からのアクセスが飛躍的に向上しました。

さらに、同じ時期に第一次世界大戦(1914~1918年)が勃発し、日本は空前の好景気に突入。

この追い風を受け、丸の内には次々と企業の本社が集まり、近代的なオフィス街として急成長していきました。

この頃にはすでに、丸の内=ビジネスの中心地というイメージが定着していたのです!

昭和時代:正式な町名の誕生と現在の丸の内へ

大きな発展を遂げた丸の内ですが、町名として正式に「丸ノ内」と名付けられたのは昭和4年(1929年)のことでした。

さらに昭和45年(1970年)には、表記が「丸ノ内」から現在の「丸の内」へと変更され、現在の町名が定着しました。

そして現在、丸の内は日本を代表するオフィス街として、三菱グループのビルを中心に大企業の本社が集まるエリアとなり、再び新たな都市開発が進んでいます。

まとめ:江戸時代から続く、丸の内の進化!

丸の内の歴史をざっくり振り返ると…

江戸時代:大名屋敷が立ち並ぶ城下町
明治時代:大名屋敷の撤去 → 軍の練兵場 → 三菱による再開発
大正時代:東京駅の完成、企業の進出、ビジネス街へ成長
昭和時代以降:「丸の内」として正式に町名が確立し、現在のオフィス街へ

昔は大名が住んでいたこの街が、いまや日本を代表するビジネス街になっているなんて、歴史を知るとなんだか感慨深いですね!

丸の内は今も進化を続けており、再開発によって新しい商業施設やオフィスビルが次々と生まれています。これから先、どんな変化を遂げるのか楽しみですね!

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