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竹内代表を「真っ裸にする」インタビュー!

株式会社グローバルパワーに入る前

―竹内社長は学生時代アメリカに留学されていますね。

僕は両国の生まれですが、幼少のころにはすでに父親の仕事の関係で群馬県に引っ越し、高校は富岡製糸場のある富岡高校に進学しました。父親はプラスチック製品の金型を設計する職人で、群馬県はその金型の名産地だったんですね。

でも、高校に行っている間にバブルがはじけて経営が怪しくなってきたんです。なので大学は国立か、あるいは就職かと。……その選択肢のなかで、僕はアメリカに行きたいなって思ったんです。実は、ずっと行きたくてしょうがなかったんですよ。ちょうど当時は円高で1ドル90円くらいだったし、日本の大学に行くよりかは少ない仕送りをもらえればなんとかなる、と両親に相談して、行かせてもらうことになりました。それで入学したのが、カルフォルニア州のサクラメントという場所にある、サクラメント・シティ・カレッジという2年制の短大です。そこから4年制のカルフォルニア州立大学へトランスファー(編入)し、国際経済を学びました。

―アメリカに行きたかった理由は何でしょうか。

当時、群馬県には外貨稼ぎに来ていたブルーカラー(肉体労働者)のイラン人が多かったんです。彼らは英語で話していて、僕も彼らと交流する機会が多く、いろいろお世話になりました。こういったコミュニケーションスキルは、海外に行ったほうが当然つくだろうな、と思ったんです。

あと、父親は職人気質で、人に頭を下げたり、営業をかけたりしない人間だったんです。それが原因で、おふくろが苦労していたのを見ていまして。だから、こちらから営業できるようになって、父親の技術を世に問えるような2代目になりたいな、って思っていたんです。それに、生産を請け負うなら、これからは海外だろうなとも感じていましたからね。

ほかに理由として、僕はバスケットが趣味だったので、本場のアメリカで黒人と一緒にバスケをやりたかった、というのもあります(笑)。だからストリートバスケをよくやりましたよ。

―アメリカで、アルバイトはされていましたか?

ずっとしてましたね。留学生は勉強しに来ているわけで、本来、働くのはイリーガルなんですが(笑)。日本食のレストランで皿洗いやホールのほか、カラオケバーのバイトをしていましたね。そこには日本人のおじいちゃんやおばあちゃんが集まって来まして、「135-Aの2番」とかリクエストしてくるのを、僕が何百枚もあるレーザーディスクから探して音楽をかけるわけです。昔あった、ジュークボックスの手動版ですね(笑)。それは最初から最後までずっと続けていました。

―それらの経験で、今につながっていることはありますか?

もう、外国人でも何人でも怖くない、という感覚が育ちました。それと、日本って住みやすい国なんだな、ということに気づきましたね。

アメリカの場合、何かにつけて訴えられてしまう訴訟大国ですし、適当に「うんうん」とうなずいていたら、危険なことに巻き込まれる可能性があります。だから、自分で自分の身を守らないといけない。

いっぽう、日本は「何にも考えずに過ごせる住みやすい国」です。約20年前のカリフォルニアはサービスが悪くて非効率的だったので、実はすごくスーパーのレジや銀行で店の列に並んでいたんです。日本は、列を並ばせないように努力しますよね。人が増えたらレジ員を増やしたり、あるいは整理券を配ったり。そういうふうに、こちらが何も考えなくても、誰かがそうして住みやすくしてくれちゃってるんですよ。その日本に住むからこそ、自分で考えて、行動しないといけない。そういう思考を、若いうちから留学で学べたのはよかったと思います。

―様々なことを吸収できたアメリカ留学だったんですね。しかし、大学は中退したとうかがいましたが……。

忘れもしない1997年の12月2日のことです。残り18単位で卒業できる!という時に、姉から父親の会社が倒産したという連絡がありました。これから破産申請などをしなくてはいけない、戻って来なさい、と。ですので結局、短大は卒業できていたものの、ユニバーシティは中退せざるを得ず、帰国することになりました。父親の会社を継ぐ気、満々だったんですけれどね。

―帰国されてから、ワイン商社に入社されていますね。

1997年の12月に帰国し、ジャパンタイムズのリクルート情報で見つけたのがそこで、アメリカのワインメーカー「カルフォルニアワイン」の100%出資の日本法人でした。アメリカのワインメーカーとしては一番大きな会社で、翌年の5月に、そこへ営業として入社し、カルフォルニアワインでつくられたワインを日本で売る仕事をしていました。

そこで仕事をしながらも、僕は起業する気満々でした。父親の会社を継げないなら、自分が会社やるしかないなって。でも「営業ができる経営者」になりたかったので、仕事はひたすらがんばりましたね。ただ、入社した動機としては「ワイン商社ってカッコいいな」という気持ちがあったこともウソではありません(笑)。

そうして営業をひと通り学んだあと、2002年初頭にはワイン商社を退社しました。それから約1年の間は、フリーターをやりながら何から始めればいいか、どのように起業すればいいかを調べ続けていました。

―2003年には、人材派遣会社のフルキャストに転職されますね。人材派遣に興味を持ち始めたのはこのころになるのでしょうか?

フリーターだった時期から、外国人の人材会社をつくろうと思っていました。留学中、自分はアメリカで「外国人」として過ごし、就職活動の難しさを身を持って知ったんです。現地で就職しようと思っても、当時はインターネットもない時代だったし情報もほとんどなく、就職できないまま日本へ帰国する留学生も多かったんですよ。それなら、日本にいる外国人もきっと同じように大変だろう、と思ったのが出発点ですね。

それで、そういった人材系の仕事ができる就職先はないかと、人材紹介会社に5社ほど登録していたんですが、送られてくる求人情報がどれも希望に沿ったものじゃなかったんです。ないならないで教えてくれたらいいのに、その説明もなくて。(当時の)人材会社は本当にいい加減だ、これじゃ外国人人材紹介ができているところはないなと感じました。

そんな時、「そういう仕事をやりたいなら、うちに入って試してみないか」と声をかけてくれたのが、フルキャストの方々でした。試していいの? そんなありがたい話あっていいの? と思いながら入社させていただきました。入社して最初の1~2年は面接、採用、営業と、朝から深夜まで働きづめでしたが、いろいろな経験をさせてもらいましたね。ガムシャラに仕事に取り組ませていただけたことでたくさんの学びを得ることができました。

―目的の、外国人人材事業を始めたのはそのあとでしょうか。

そうですね。「フルキャスト留学生支援事業部」という名で、社内ベンチャーという形で始めさせてもらったのが、入社して2年後の2005年10月です。

実は、その約1年前の2004年に、別の創業者の方が、株式会社センサップ(グローバルパワーの前身になる、外国人人材会社)を設立されていました。この会社を株主として支援されていたのは、ブックオフ創業者で現在「俺のイタリアン」「俺のフレンチ」をやっている坂本孝(さかもと たかし/俺の株式会社 代表取締役社長)さんでした。でも当時は外国人の採用支援事業のニーズが少なかったせいもあり、あまりうまくいってなかったんです。

それに、私が勤めていたフルキャストの本体も、2008年9月に起きたリーマン・ショックと共に当時は事業運営が難しくなってきていました。そこで坂本さんとも話し合って、私が勤めていた外国人採用支援事業をセンサップに譲渡し、2009年2月1日、グローバルパワーとして再出発しました。私は営業本部長として、ここに入社することになったんです。

ただやはりリーマン・ショックの影響が大きくて派遣させてもらっていた人材が派遣切りに遭い、売り上げのほとんどが消えてしまいました。ここからは、本当に地獄のような日々でしたね。営業しても「外国人なんかいらない」と追い返されるし。じゃあ、せめて日本人なら、ということで日本人の人材紹介を始めて……それで、なんとか食いつないでいましたね。その時の社長は本当に大変で、申し訳なく思いましたが、2010年の12月に坂本さんからのご指名をお受けし、私が代わって社長に就任することになりました。

2010年12月の時はまだまだ債務超過の状態でしたが、おかげさまで今は純資産も出ていますし、事業としては、社会に期待していただける立ち位置まで来られたかな、と思っています。でも、それは決して僕の力ではなく、仲間たちのおかげです。僕が社長に就任してから、当時の7名の仲間たちが全員残ってくれているんです。さらに今では毎月仲間が増えている状況でして、本当に立派な仲間たちに支えられています。心の底から感謝ですね。

現在

―グローバルパワーの事業内容についてご説明をお願いします。

日本に住む、日本語が堪能な外国人の社員としての人材紹介、または派遣がメインとなります。僕らはその人たち(外国人求職者)のデータベースをずっと作成していまして、現在その登録者数は4万人、133か国となっています。ほか、日本人の中途雇用の人材紹介、日本人の新卒紹介も行っています。

外国人の登録者のうち、1位は中国人で全体の5割を占めています。2位が韓国、3位が台湾、4位はアメリカです。あとはASEANが多いですね。ユーロ圏も、全体の10%近くになります。

―外国人の方々は、日本の企業のどういった業種に就くことが多いでしょうか。

多種多様ですね。でも、社員を紹介するパターンと派遣のパターンでは、少し傾向が違います。社員の場合、紹介先の業種はバラバラで、これといった傾向はありません。いっぽう派遣の場合は、そのおよそ半分が外国人観光客の接客対応スタッフです。大手の商業施設や、百貨店のインフォメーション、高級ブランドを展開しているメーカーの店舗ほか、現在は免税コーナーが活況なので、そういったところへ母国語で接客対応できる外国人販売員を派遣しています。

ほかにも、最近は大手の多言語コールセンターといったオフィス系の派遣も多く、特に海外との取引がある企業へ、日本語と英語やそのほか様々な言語で企業間のやり取りができる「ブリッジ人材」を派遣することもありますよ。

―外国人と日本企業の雇用のマッチングで難しい点はありますか?

マッチングの難しさは日本人とたいして変わりはないと感じています。結局、会社によって企業風土や文化や考え方があり、また重要としているポイントも会社によって、人によっても違いますから。

ただし、知らないといけないことはあります。例えばイスラム教徒の方は豚肉やお酒は口にしてはいけないとされているので、彼らを食事に誘う時やお酒の席では気をつけなくてはなりません。中国人ですと、面子を非常に気にする文化が根付いているので、人前で彼らを叱っちゃいけないんです。そういった国民性とか、大まかなことは気にする必要がありますね。でも、だからといって人前で怒られても全然平気な人もいますし、それはもう人によって違いますね。日本人でも宗教上のことでセンシティブになる人もいますからね。

企業が外国人を雇用するうえで一番難しいのは、日本人の「ハイコンテクスト文化」ですね。コンテクストとは雰囲気とか背景のことですが、雰囲気を高く読み解く文化、つまり「空気を読む文化」のことです。日本はそれがいいところでもあるけど、そこに甘えている部分も多い。たぶん、日本人の経営者が一番甘えているんじゃないでしょうか。言わずともわかってくれよ、残業してくれよ……と、昔ながらの会社にありがちですよね(笑)。でも、そこは外国人にとってはとてつもなく異様で理解しがたい部分なんです。結局イリーガル(非合法)なことですから、そういう企業ではグローバルスタンダードな外国人の方々に活躍いただくことは難しいでしょうね。そもそも「郷に入ったら郷に従え」なんて思えている外国人は少ないと思います。

ですので、企業様からいただく求人内容は、めちゃくちゃ細かいところまで把握するように心がけています。ここをいい加減にやると、適切なマッチングができないですから。細かく聞いて、細かいところまでお伝えする。ここは、外国人日本人は関係ないですね。

株式会社グローバルパワーについて

竹内幸一(たけうち こういち) 株式会社グローバルパワー 代表取締役 1974年東京生まれ。群馬県藤岡市育ち。群馬県立富岡高校卒業後、アメリカに渡りサクラメント・シティ・カレッジ(Sac City College)に留学。カリフォルニア州立大学サクラメント校(Cal State University Sacramento)へトランスファーし、その後中退。1998年4月、外資ワイン商社へ就職。退職後1年はフリーターで過ごすが、2003年には大手人材会社フルキャストへ転職。2005年、社内ベンチャーとして外国人の留学生採用支援事業部の設立に参画。4年後には事業部のMBOを経てグローバルパワー設立に参画し、2010年12月代表取締役に就任し、現在に至る。

今後どういうことをしていきたいか

この内容は若者向けのWEBマガジン「Career Groove」にて、代表が受けたインタビュー記事からの引用です。 http://mpjob.jp/careergroove/%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%B9%B8%E4%B8%80/

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