津和野町 | トップページ(町民向け情報)
津和野町の公式サイト。概要、広報、定住対策、暮らしの情報、イベント、施設案内、観光情報、防災情報。
http://www.tsuwano.net/www/toppage/0000000000000/APM03000.html
1990年生まれ。東京出身。慶應義塾大学在学中にFoundingBaseの前身となる島根県津和野町の町長付プログラムに参加。就農後継者プロジェクトを推進。大学卒業後、FoundingBase設立とともに入社。2019年10月より、Community Managerに就任。
今の仕事の話をする前に、ちょっと子供の頃の話をしたいと思います。僕は小学校から始めた野球を高校3年までやりきりました。文字通り野球漬けの毎日で、毎朝6時に起きて授業前に朝練をして、授業が終わればまたすぐに練習。家に帰れば、10キロ走ってから素振りを100~200回するというような毎日を送っていました。
ほとんど野球を中心に回っていた高校時代が終わり、運良く慶應義塾大学への進学が決まったものの、「そもそも大学って何をする場所なんだ?」ということを考え始めたのは、大学に入学する少し前のこと。当時、なんとなくですが「大学=大人の入り口」な印象しかなかった僕に衝撃を与えたのは、入学式で出会った大学4年の先輩の林(現 FoundingBase CCO)でした。後にこの先輩が立ち上げたFoundingBaseに入社することになりますが、そんなことは入学当時のぼくには知る由もありません。
なにがそこまで衝撃だったのか。当時の僕から見た先輩は、社会のことを自分ごとのように熱く語り、自分がやってることをこれでもかと生き生きと語る、”ワクワクしたオトナ”でした。
今もそうですが、ぼくは「縁と運は大事にしよう」と決めており、その先輩がやってることにぼくものめり込んでいきます。大学前半の2年があっという間に課外活動で過ぎ去りました。
大学1~2年は林にくっついて、当時はまだ珍しかった電気自動車を借りて1週間地方を旅したり、福島県の会津若松に夏休み期間中丸2ヶ月間住み込んでフランス人留学生の受け入れプログラムを作ったり、千葉県の御宿町で町の印刷会社さんと一緒に地域のフリーペーパーを作ったりと、地域のことに携わる機会をたくさんもらいました。初めは、自分たちで企画して冊子を作ったり、地域の大人たちに自分で考えた企画を話す機会をもらうだけでも嬉しくて、「なんかやれてる感」に満足していました。
そんな自分に転機が訪れたのは大学2年の後半のこと。会津地域の観光パンフレットを全編英語で作成し、町の観光振興を行おうと意気揚々と進めたプロジェクト。これまでと違って、だれの後ろ盾もなく、初めてぼく1人で企画から仲間集め、実施までを担ったプロジェクトです。
冊子の製本にかかるお金も、地域の方から協賛金をもらって作ろうと決めて、商店を一件一件回りました。考えればわかることですが、これが大変でした。毎月夜行バスで通い詰め、何件も足を運びますが思うように反響を得られない。企画に価値を感じてもらうということも、ぼくを信頼してもらうということも、どれだけ大変なのかということが身に染みてわかった体験です。
そんな中でも協賛金を出していただいた方が4人おりました。ぼくにとって、本当の意味で初めて自分の仕事の対価としてお金をいただいた経験です。1口3万円という金額でしたが、金額以上に想いが詰まったお金であり、重みを感じたお金でした。
例えば、小さなお蕎麦屋さんを営むご主人の話し。毎朝そば粉を丁寧に挽くところから仕事を始め、一つ一つ手打ちで提供する蕎麦は格別に美味しかったし、なによりその仕事に向き合う姿勢を学び、人としても大変尊敬できる方でした。そんなご主人が、自分の魂を込めた蕎麦を提供して、お客さんからいただいたお金。そこにかけた時間をぼくは預かったんだと思った時に、胸が熱くなったのを今でも鮮明に覚えています。この方に限らず、協賛してくれた皆さんはぼくの企画ではなく、ぼくのチャレンジしたいという言葉に耳を傾け、お金という形で想いを預けて応援してくれました。地域で出会った「カッコいいオトナ」はいつしか、ぼくのありたい姿になっていました。
この気持ちに応えられる人間になりたい。このプロジェクトを成功させることは勿論、次に新しいチャレンジするときも、本気で向き合って取り組む。そう心に誓った出来事でした。
大学も3年が終わろうとしていた頃、林から声をかけられたのがきっかけで久しぶりに会うことに。その当時、林が立ち上げを企画していたプログラムに誘われたのがきっかけで、ぼくは島根県津和野町の町長付き職員として働くようになります。このプログラムが、今のFoundingBaseの前身となる取り組みでした。
大学を休学し、どっぷり地域に浸かりながら仕事をする。2年生のときに感じたあの想いがなければ、決して地域に飛び込む覚悟が決まらなかったであろうプログラムに、ぼくは参加していました。
津和野に行ってまず取り組んだのは、農業後継者を見つけるプロジェクト。いろんな地域に行く中で、どこの地域に足を運んでも、後継者がいなくて困っているという声を聞いたからです。誰もが一番に言う、けれど最も難しい問題に、無謀にも取り組んでみようと思ったのでした。
※津和野町に飛び込んだ当時の仕事風景
そうは言っても、町や地域がこれまでいろいろと取り組みをしてきたものの、後継者は全く増えていない状況。そんな中でぼくがアクションを起こして変えられるのか。地域の人からは疑問の目で見られました。かく言う林や佐々木(現CEO,当時は林と共にプログラム創設者)にも、やめた方がいいと言われ続けました。それでも、なんとかやり切ろうと気持ちだけは折れませんでした。
ファクト情報を集め、現場の課題を知り、辿り着いた結論。それは、農家さんと農業従事に興味のある方々の、接触頻度を最大化させること。
住む場所を変えるということは、職やその地の人間関係・コミュニティも新たになる、ということ。インタビューを重ねる中で、就農希望者の心理的ハードルは高く感じていました。一方で、役場が定める当時の就農研修は1ヶ月とされていました。
そこでぼくは、1ヶ月でインプットすべき研修内容を細分化し、6ヶ月間で頻度多く接点を持ってもらう企画を提示。その間、就農知識だけでなく、津和野町そのものの紹介や実際に移住した人たちと交流をもってもらったり、職・住・コミュニティや人間関係の不安を一つひとつ取り除く活動を行いました。
この企画をもとに、これはと思う農家さんを回って協力していただけるよう直談判して回りました。時には農家さんが困っていたPC作業を手伝ったりと、自分にできることは何でもやりました。学生であるぼくらの受け入れ担当だった役場の宮内さんの支援もあり、なんとか協力農家さんが集まっていよいよ企画のスタートです。
ここまでやって誰も企画に参加しなかったらどうしようかと、申込期限までは本当に気持ちが落ち着きませんでしたが、蓋を開けてみれば全国から13名の参加申し込み。結果的に、半年間の研修を経て1名が農業を始めるという、出来すぎなくらいの成果が生まれました。
この企画を通じて、地域の人から信頼を得ることができ、今までぼくらの活動に懐疑的だった方からも声をかけてもらうようになったりと、少しずつ認められるようになりました。次に取り組んだマルシェ(朝市)では町の農家70名と一緒に作り上げる規模の大きなプロジェクトになるなど、町の中での取り組みも大きくなっていきました。また、仕事以外の面でも、釣りやスキーに連れて行ってもらったり、家に招かれてお酒をいただいたりと公私ともにいろんな経験をさせてもらいました。年齢関係なく迎え入れてもらえる環境で、自分らしくあれる生き方と、仕事も遊びも本気になれる仲間を得ることができた2年間でした。
※地域農作物の販路拡大を目的とした地域商社事業
津和野でのプログラムを通して、佐々木と林は会社化を決意、現在のFoundingBaseが誕生しました。当然ながら、ぼくはFoundingBaseに入社します。
ぼくらFoundingBaseのMISSIONである「自由」をUpdateするという言葉は、これまで出会ってきた”かっこいいオトナ”たちが体現していました。地域には人を育む土壌と、チャレンジする余白が多くあると感じています。
ぼくの役割は、そんな地域の可能性を最大限活かして、地域コミュニティがまるごとチャレンジする仕組みを作ることだと思っています。地域の中で人口が減っていくのはある程度避けられない事実のなかで、より豊かな社会かどうかは、一人一人が自分を表現しきっている社会かどうかだと感じています。
小さな単位の地域社会だからこそ、一人一人の想いが尊重され、それぞれに大切な役割があるコミュニティづくりが実現できる。
今ぼくがメインで関わっている島根県津和野町も岡山県吉備中央町も、地域で生きる主体的な個人の集まりによってこそ実現できるまちづくりが、動き出している実感があります。常にぼくが先陣をきって課題に飛び込み、その地域の主体者であり続ける。そのプロセスで得た経験学習をFoundingBaseの資産にして、他の地域でも活かしていく。
そのサイクルによって、苦楽をともにしながら高め合える仲間、ぼくにとっての「一生の仲間」を増やし続けていこうと心に誓っています。