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なにをやっているのか

CADメーカーからオファされ制作した代表水野の作品
いろいろやっていますが、実績をお見せできないのが残念です。
主に自動車メーカー関連のデザイン業務を請け負っている会社です。業務内容は、アルミホイールのデザインや造形・エアロパーツのデザインや造形が多いです。 代表を含めスタッフ3名と小さな会社ですが、「やっていることは大きいぞ!」と胸を張って言えます。 実績をお見せできないのが残念ですが、皆さんが一度は目にしている商品のデザインに多く関わっています。 オートモーティブデザイン・プロダクトデザインを中心に グラフィックデザイン・撮影や画像処理等の実績も多数。 関連の販売促進ツール企画デザインも行っています。 日本の中間ポイント東海エリアの地の利を活かして 日本全国はもちろん海外からも幅広くご依頼をいただいています。

なぜやるのか

3Dプリントメーカーの公式パンフレットに水野の作品が掲載されました。
日本グッドイヤーのご依頼でデザインしたド派手なラッピングデザインは当時話題になりました
「なんでもできる」は追及せず「 オンリーワン」を目指す 2000年の個人デザインオフィス開業から現在までガムシャラに走ってきました。時には削られ揉まれ磨かれて、今では自分でも驚くようなプロジェクトやデザイン開発に参加させていただいています。これも得意な事を追及した結果だと思います。持論ではありますが そのジャンルを好きと公言できる人には決して適わない。なんでもソツなくできて沢山の仕事を受注しても愛情が持てなくては最良の結果は提供できないし、それなりに出来ているように見せることはできても、プロとしてお客様に対して失礼だと考えています。体がヒトツということもありましたが、興味が持てないことや得意なジャンルで無いことは敬意と勇気を持ってお断りさせていただき得意な分野に専念してきました。経営者としては馬鹿だとは思いますがパフォーマーとして当然だと考えています。結果として我が社の個性を確立し信頼と実績を築くことができたのだと信じています。 クライアントの皆さんは現場から経験を積んでこられた方々が多く、デザインという言葉には収まりきらない「血の通ったモノヅクリ」に参加させていただいております。バーチャルやデジタルで完結することが多い昨今ですが、時代に寄り添いながらも、ものづくりに拘って邁進していきます。

どうやっているのか

昨年スタートしたオリジナルブランド 第一弾はなんと陶器!
カペラシンガポール総支配人と。この時は本当に嬉しかった!
僕は主に自動車メーカーやメーカー系のデザイン委託をいただく個人の会社を営んできました。そこに行きつくまでには苦労や苦悩も沢山経験しましたが、お陰様で国内外からもご依頼をいただけるようになり順調ではあったのですが、年齢も重ねそろそろ次の世代にバトンを渡したいと考え、昨年の春から若いスタッフを採用することにしました。いままで独りで関わってこられたこと自体が奇跡に近いプロジェクトばかりで大変光栄なことです。しかしPRし辛い実績が主であることは創業当時からの悩みでした、大手企業様から依頼を頂ける個人デザイン会社ということに誇りもあり、遣り甲斐を感じておりました。ですが「若いメンバーを入れる」と決めた時に自分にふっと小さな不安がよぎりました。「知る人ぞ知る存在にはなれたが、このままでいいのか? 夢を持って地方から来てくれた若い奴らに希望を持たせてやりたい。第一に若い奴らに「「ウチノ社長スゴイ」」 と思わせたい。」それが大きな根源でした。若い彼らに負けたくないという本音も少しありますが、夢は何歳になっても持ち続け追いかけられる、裏方が主役になれることがあるのだ、と、なにか箔をつけておきたかったのです。 外的に業務実績を言えない関係もあり、自己PRの名目で 年に2回のペースでCGによる作品を発表していました。主な題材は「 十二支(えと)」をモチーフとしたものです。 この活動で、CADメーカーや3Dプリンターメーカー等から注目をいただくことも増え、知らない間に「3Dクリエイター」として関連メディアで取り上げられるようになっていました。 そして作年の1月に、アジアのデザイン大会があるこを知人から教えてもらい、数年前の作品を気軽な気持ちでエントリーしました。実はそれまでデザインの賞というのは、頑張っていればある日突然もらえるものだと思い込んいました。ミシュランガイドのような。でも違ったのです。今思えば当たり前のことではありますが我流でここまで来てしまった私にとっては大きな驚きでもありました。 そして、はじめてのコンテスト応募の結果は「ファイナリスト」。悔しい気持ちの方が強かったのですが、受賞されたアーティストや企業規模を拝見してファイナリストになれただけでも栄誉な事なのだと知りました。知人や友人にも同じことを言ってもらえ「あ、自分はけっこう通用するのかもしれない。」と考えたのです。そして、それを商品化したくなりました。 僕の故郷は瀬戸市 陶器の街です。 18歳まで過ごした町工場の街、物心ついた頃から身近に陶芸がありました。 どうせやるなら第一弾は陶器がいいと決めたのですが、身内や親せきが陶器屋というわけではありません、そう簡単にはハナシを聞いてもらえませんでした。知る人ぞ知る ということもあり私が関わった製品は知っていても、私のことは知らない。当たり前ですから仕方がありません。この時にも「やはりこのままではダメだ。打って出なくては」と強く感じたのです。 そして一社 私の声に耳を傾けていただけた陶器メーカーさんが現れました。その方も同じように瀬戸も陶器もこのままでは衰退すると危機感を持っておられ、コラボレーションの話が決まったのです。当時はここまで大きな話になるとは想像もしていませんでした。 デザインをし直して3Dプリンタで原型を作りました。その原型を元に陶芸の原型師が陶器の型で抜けるように調整を重ね、そこからは全て手作業になります。デジタルで作った硬質な面を活かしながら人間の手で表現された部分をミックス、そして最後は窯に任せるのです。 そして一ヶ月後、出来上がった初期サンプルの持つオーラに自分が驚いてしまいました。 私も瀬戸で育った人間、それなりに陶器を沢山見てきましたが本当に驚きました。まるで宝石のよう。そこから「宝玉」と名付けることになりました。 さっそくサンプルを手に、有志の信頼できる方々に見てもらいました。ほとんどの方が「これが瀬戸焼か?!」と驚かれました。そして「ここに持っていきなさい紹介するから」とあれよあれよと話が大きくなり、海外にまで話が膨れ上がりました。海外の方はデザインや日本文化への関心も高く、嬉しい反応をいただきました。 そしてカペラシンガポールで展示が決まった。 素晴らしいことも沢山あったが、ここまでのサプライズはなかった。たった数ヶ月前にはただ楽しくも忙しい日常を過ごしていたのに、町工場的に仕事をしてきたオッサンの小さなタクラミは気が付けばシンガポールからのスタートとなってしまった。ましてや話題のあのカペラシンガポールで。米朝首脳会談の僅か2週間前の話。 この実績を今後の会社PRの大きな武器にして、待つ会社から 攻める会社にしていきたいと考えています。