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【社長インタビュー前編】東北の小さな町の野球少年が、“多様性”を求めて海を渡り、『モノポリー』や『ジェンガ』などで知られる世界的玩具メーカーの日本法人リーダーに!


こんにちは。ハズブロジャパン採用担当です。ハズブロは“最高の遊び体験”を創造して提供する、玩具とエンターテインメント企業です。

今回から2回にわたってハズブロジャパン社長・上林治のインタビューをお届けします。

前編では、生い立ちから弊社に入社するまでを聞きました。


個性的といわれた少年時代。自らの可能性を試すため、アメリカの大学へ!

――どのような少年時代を過ごしてきたのですか?

山形県の小さな町で生まれ、高校までそこで育ちました。学生時代は野球に捧げたといっても、過言ではない生活でしたね。

小学校低学年からはじめたのですが、負けず嫌いな性格で、もっと上手くなりたいという気持ちが強い子でした。毎日の練習に加え、雨の日も雪の日も毎日3キロのランニングを日課としていました。

小、中学時代はキャプテンを務めていたこともあり、チームで練習して試合に挑み、皆で成果を上げて喜びを分かち合う…。それが何ものにも代えがたい体験であることを学びました。仲間と楽しさと勝利を共有したい、という思いは今でも私のベースとなっています。

――高校卒業後はアメリカの大学に進学されたと聞きましたが、いきなり海外に行くのは大きな決断でしたね

将来への明確な目的があったわけではなく、ただ「世界中の人たちとコミュニケーションを取れるようになりたい」という漠然とした理由で留学しました。

また、育った環境が小さなコミュニティだったため、より広い世界に出て多様な価値観に触れたいという思いもありました。

というのも、小さな町の中で、私は子どもの頃から“個性的”と言われ続けてきたんです。それならば個性を生かせる環境で自分の可能性を広げたい、チャレンジしたいと思っていました。

――個性的といわれていた所以は、どんなところだったのでしょうか?

ある意味、独創的な発想を持ち合わせていたからでしょうか。たとえば、中学の通学時。自宅から学校まで4キロほど道のりがあり、自転車通学が許可されていました。しかし雪の降り積もる時期は、安全面を考慮し、「自転車通学禁止」というルールでした。そんな中私は自転車を改造するアイディアを思いつき、タイヤの横に鉄板、車輪にはチェーンを巻きつけ、スキーのように滑るスタイルで通学していました。これは車輪付きスキーであって自転車ではない、と言い張って・・・・。まさに、トランスフォーマーです(笑)もちろん、そんな中学生、まわりにはいませんでした(笑)

私は3人兄弟の末っ子ですが、兄2人とは違い“ユニークな子だな”と温かく見守られていた感じでしたね。留学したいと話したとき、両親は驚きもせず、“治らしいな”という反応でした。

――アメリカではどのような大学生活を送ったのでしょうか?

学生たちは皆、物事に対して視野が広くて視座も高く、自らの考えを多角的に見極めた上で論理立てて話すのが非常に上手でした。自信に満ちあふれたその姿に、最初は衝撃を受けましたね。私も自分の強みをどう活かせるか必死に考えてディスカッションに参加しました。同級生のレベルに達していないところは彼らの一挙手一投足を真似て、まさに食らいつくような日々でした。

特に、最初の3カ月は自分の考えをうまく伝えられず、気が参りました。でもあるとき、開き直ったんです。初めは自分のつたない英語をネイティブのようにキレイに作ろうとしていたのですが、ちょっと待てよと…。私は外国人でいわば“客”の立場なのだから、彼らの方こそ、私の英語を理解するよう務めるべきじゃないか、と考えたんです(笑)

その逆転の発想をしたら、気持ちが楽になりました。外資系企業で長く働いていますが、今もその発想は自分の中にあって、内容や趣旨をきちんと伝えられさえすれば英語の文法などはさほど気にしていません(笑)



顧客の反応がダイレクトに伝わる醍醐味にひかれ、リテールの世界へ!

――卒業後はどのような業界に就職されたのですか?

リテール(小売業)に関心があったこともあり、日本に進出したばかりのアメリカの玩具量販店に就職しました。当時、日本はまだ“流通革命”が起きる前だったので、アメリカのカテゴリーキラーが参入したら面白いことになるなと直感しました。

――なぜリテールに興味を抱いたのでしょうか?

当時、アメリカの流通は日本と比べて十年先を進んでいるなと感じていたので、近い将来の日本の流通を思い描いたときに、その変化の中に自分を置いてみたいなと考えたんです。

小売ってお客様の反応が直接、伝わってくる業種なんですよね。自分たちの商品やサービスのフィードバックをすぐにいただけるので、評価がわかりやすいですよね。

また、商品やサービスを通じて、人々の生活や人生まで豊かにするお手伝いができるところに醍醐味があるなと感じていました。

――最初に就職した企業では、どのような仕事をされていたのですか?

1社目には9年間ほど在籍しましたが、店舗マネージメントからはじまって、その後、本社に移って店舗予算の策定や管理、消費者調査、部門横断的なプロジェクトのマネージメントなど多岐にわたる業務を経験させてもらいました。

特に、特に、部門横断的なプロジェクトでは、それぞれの部門の意見を集約、調整し、意思決定して前に進めるというスキルセットを身に着けることができ、今につながる経験だったと思います。



多様なバックグラウンドを持つ仲間と働いた経験は、自分の財産!

――以降、どのようなキャリアを積まれたのでしょうか?

2社目は、大手ラグジュアリーブランドのリテール部門でした。前職は外資系企業でありながらも英語でコミュニケーションを取って意思決定する場面がほとんどなく、将来を見据えた上でそのスキルを身に着けたいという思いに駆られ、海外で多国籍の人々と仕事ができる環境を求めたんです。バリ島に赴任し、セールス&マーケティングやカスタマーサービス、テナント運営など多岐にわたる部門の統括を経験しました。

その後、縁あって、新卒で入社した玩具量販店に戻ってプライベートブランドの商品開発を担当。

その後は、イギリスの大手小売業の日本法人に入社しました。プライベートブランドの商品開発を経て、アジア地域の新業態開発プロジェクトに転籍。

中国・上海が拠点でしたが、このときはまさに“多様性の塊”ともいうべき状況で、10名の部下は6カ国の出身者で構成されていました。

――6カ国もの人たちが集まるチームを率いて学んだことは?

当然、考え方にも意見の言い方にも、それぞれの国民性が表れるんです。聞かなくても積極的に主張してくる人もいれば、聞かないと意見を発してくれない人もいる。そういう意味で、多様な人たちとの接し方、マネージメントの仕方を勉強できたと思います。

そのときの経験から、今、私はメンバーひとりひとりの経験度合いやバックグラウンドを考えて接するようにしています。それぞれが自分を生かせる環境で、生産性の高い仕事をしてほしいと思うからです。

特に、日本人は発言が少ない傾向があり、海外の人たちからは意見を持っていないと思われがちですが、しっかりとした意見はあるけどアウトプットしていないだけ。私にはそれがわかるので、彼らの意見を引き上げるのと同時に、それぞれが自分の意見をアウトプットできるよう、いかにサポートするか考えるようにしています。

――そしてウォルト・ディズニー・ジャパン、外資系玩具メーカーを経て2019年、ハズブロジャパンに入社されましたが、このときの経緯を教えてください

当時、小学生の息子がモノポリーにハマっていたんです。塾やサッカーで忙しい中、週末の夜、モノポリーで遊ぶ時間は家族の絆を繋ぐ大切なものとなっていました。ハズブロと面接する機会をもらったときは、まず「モノポリーの企業だ!」と気になったのがスタートです。

その後、APACとアメリカ本社の計15人と面接したとき、私から全員に「あなたがハズブロに対して誇りを持っていることは?」と質問させてもらったんです。すると、共通して「ここで働いている人とカルチャーが好きだ」という答えが返ってきました。その言葉を聞いたときに、私の思いや大切にしたい信念と重なることを嬉しく思いました。

もちろん私自身、玩具業界は長かったので、ハズブロが持つブランド力、商品力に大きなポテンシャルがあって日本市場での成功を思い描きやすかったこともありますが、入社の決め手は、社内の人々が仲間とカルチャーに大きな誇りを持っていたという点でした。

いかがでしたか? 後編ではハズブロジャパンの事業や組織、そして展望などをざっくばらんに語ります。こちらもぜひご覧ください!

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