アップルアーキテクツの専務取締役とは?
名前:菊池千鶴子
性別:女性
属性:アップルアーキテクツ株式会社 専務取締役、2児の母
専務になるまでのストーリーとは?
1975年に埼玉県深谷市生まれ。
埼玉県深谷市で生まれ、小学2年生まで静岡育ち、小学3年生で深谷市に戻る。高校は群馬県の女子校に通っていたごくごく普通の女の子であった。
運命のショップ店員(代表:K.I.さん)との出会い
スポーツ推薦で入学した子達が部活を全力でやる高校であったため、千鶴子はスポーツ推薦ではなかったため高校1年途中で陸上をやめた。
家から学校まで離れていることもあり、学校帰りに途中駅で駅前をうろうろする習慣があった。
古着、レコードなどをはじめとして、色々なところを見て回り運命のお店と人に出会った。
その時期は黒色が好きで、黒い服がおいてあるガラス張りの店舗が目に入り、自然と惹かれた。
いい感じのお店だったこともあり、制服ではいっていいかわからずしばらくガラス越しで見る日々を過ごした。
(後日談で、お店の店員さんがガラスに貼りついて女子高生を「ガラスが汚れるだろ」と中の人が思っていたことを聞いたそう。。笑)
ある日、中にいたK.I.さんがおいでおいでをしてくれたので、おそるおそるだったが店内に入ることができた。
そして中にあるものを全部試着してみていいよと言ってくれた。DCブランドの洋服だったためお値段もそれなりにした。
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DCブランドは、1980年代に日本国内で広く社会的なブームとなった、日本のアパレルメーカーによる高級ファッションブランドの総称。
(wikiより抜粋)
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それを全部試着してもいいと言ってもらったこと、そして実際に試着したことで”服”の認識が変わった。
K.I.さんのお店で初めて買ったのが、ウン万円のニット帽子だった。女子高生でお金もない千鶴子は帽子に一目惚れしたが高校生だったためお金がなかった。
しかし、なんと後払いでいいからとK.I.さんが帽子を千鶴子に渡した。その後バイトで入ったお給料でコツコツと支払いをした。
そして帽子を渡された際に、有名ブランドの服などはシーズンが終わったら総取り替えになってしまうということ、手に取った物で同じものはないということをK.I.さんから聞いて、学んだ。
セールになっているものはどんなにいい物だと思った物でも残り物であること。
下記の5つをK.I.さんから千鶴子は教わった。
「早く買うか?」
「おそく買うか?」
「早く手に入れるか?」
「遅く手に入れるか?」
「手に入れられないか?」
この5つの言葉が千鶴子の原点であることは間違いない。
K.I.さんとの日々
ほぼ毎日、その店に通った。
そして全部の服を試着させてもらい、ブランドのコレクションのビデオテープなどももらったりしていた。
そのときから洋服1つ、1つが好きすぎて着てみなきゃ何もわからないというマインドになっていた。
そして全部を試着した経験から、全部の服を着こなせる自信がついた。
服の構造が世界的なアパレルの服は結構特殊だったこともあり、服を着るとはどうゆうことかを高校生ながらに身につけることができた。
服を通じて色の違いも気になるようになり、紺と黒の「似てるけど違う」違うものであったりを認識して、紺がより好きになったりとより深くハマっていった。
余談だが、高校3年間でお小遣いとバイト代をつぎこみ、15着くらいでウン十万くらい使ったそうだ。好きじゃなきゃここまで出来ないだろうという粋である。
高校を卒業して大学へ
洋服で好きで服飾大学に高校の先生のおすすめの服飾大学に進学し、入学式はコムデギャルソンで全身をコーディネートした。(スーツはお母様に買ってもらったらしい)
大学は都内にでて、寮に住んでいた。目黒の一頭地にある2万円の寮で六畳一間の空間に3人押し込められていた。さらに食事当番も回ってくるし、お風呂は桶もって並んだりと昔ながらの寮生活をしていた時期もあった。しかし生活環境が過酷だったため半年後、友達と2人でアパートを借りて二人暮らしを始めた。
その間もK.I.さんとのやりとりを続け(電話など、実家に帰省したときは会うなど)、たまに段ボールで服が届き、着ないものは返して、着るものは後払いで支払う私には大分意味がわからないシステムで洋服を洋服を順調に増やしていった。そして洋服の買い方が通常の大学生とは違ったため、周りの友達に破産しないか心配されたりもしていた。
大学での学び
大学ではオートクチュールを学びながら、プレタポルテを着ていた。
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オートクチュールとは、パリ・クチュール組合加盟店で注文により縫製されるオーダーメイド一点物の最高級仕立服のこと。その店のことは、オートクチュールメゾンという
(wikiより抜粋)
プレタポルテとは 高級な既製服を示すカタカナ語、ファッション用語。
(wikiより抜粋)
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学科の選択の際、プレタポルテが好きだったこともあり、布のデザインをするテキスタイルデザインを専攻して、絵を書いていた。
ダブルスクールで学ぶかも迷っていたが、教授のなかにプレタポルテについても詳しい先生がいたためそのまま通うことを決めた。
大学時代は、舞台芸術部の部長として、クラブでファッションショーをしたりとイケイケしていた。
DCブランドの企業に就職
大学を卒業し、DCブランドの企業に就職。(ちなみにK.I.さんのお店で扱っていたブランドと一緒)
22歳で入社し、新宿の店舗からはじまり、池袋の店舗、新宿の店舗、池袋の店舗(店長)、渋谷の店舗、池袋の店舗(店長)と異動をして様々な店舗で様々なお客様に出会い服を売ってきた。
池袋の店舗(店長)だった際に会社でも数名しかいけないパリコレに行く機会なども手にした。店長を経験した後、本社に異動し全国の販売員の取りまとめ、指導、全体統括などに従事した。
仕事以外では、同じ百貨店に入っていた周りのブランドの人と仲良くなり、毎日遊んで飲んでた。その際に現在の夫であり社長の菊池暢晃と出会い、お付き合いが始まった。
仕事でも、それ以外でもいろんな人に出会えた。横のブランドの人、お客さん含めていろんな人を見ることができ、買う人と買わない人がわかるようになった。
人と接してどのような物を求めているかなど空気感で察することができるようになっていた。
お客様含め出会った人とどのように関係性を続けていくのかなどを感覚として身につけた。
結婚を機に退職そして、母となり専務に
結婚を機に会社を退職して就労支援のカフェでバイトで働き始め、そして目黒区のNPO法人の職員となった。流産を機に退職。その後すぐ、第一子である太陽くんを授かった。保育園に入園したが、途中から共働きでないと預けられないということになりお母さん支援の会社で2年働き退職。
その後、第2子である一光くんが生まれて、バイトでNPO法人に戻り働いた。働いているなか夫・暢晃から「青森県に帰る」と言われ、もともと結婚の際に聞いていたこともあり「やっときたか」という思いで約1年ほどでNPO法人退職した。
そして青森県で自分の家を持ち、自然の中で子供たちを育てることを心から楽しみ、青森県に引っ越しをした。青森県への引っ越しと同時期に夫・暢晃が起業し、最初は横で見守っていた。2年後に正式に入社し、現在専務取締役としてアップルアーキテクツ株式会社を支える母のような存在として活躍している。