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【社長インタビュー_前編】学生時代の辛い経験を乗り越えたのが今の自分の強さになっている。生い立ち〜起業までのストーリー

こんにちは!採用広報担当の茂藤です。当社代表取締役の井上 茂の生い立ち〜起業にいたるまでの過程をインタビューしました。井上の想いに注目してお読みください。前編と後編に分かれておりますので、後半は下記リンクからお読みいただけます。
【社長インタビュー_後編】積み上げてきた"信頼"が会社の成長の支えに。創業初期〜拡大までのストーリー | 株式会社トレンドアート
こんにちは!採用広報担当の茂藤です。当社の代表、井上のインタビュー後編です。前編をご覧になっていない方は、先に下記前編をご覧ください。今回の後編は、創業初期から会社が成長していく過程をお届けして...
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目次

  • 母親を若くに亡くし、絶望の淵からなんとか立ち直り、前を向いた学生時代

  • ーー学生時代はどのように過ごしていましたか?

  • ーー学生時代に印象に残っている出来事を教えてください

  • ーー当時はどういう心境でいらっしゃったんですか

  • エンジニアとして活躍し続けた会社員時代

  • ーー専門学校を卒業してからの進路を教えてください

  • ーー当時の働きぶりやどんな業務を担当していたか教えてください

  • ーー成果を上げることができた秘訣を教えてください

  • 頑張っている人が正当に評価される会社を目指し、起業を決意

  • ーーそれ以降どんなキャリアを歩まれたか教えてください

  • ーーここまで順調な様子ですが、辛かったことがあれば教えてください

  • ーーこれが起業を決意した理由ですか


プロフィール

氏名:井上 茂

出身:三重県志摩市

好きなもの:焼肉、刺身、鉄板焼き、車

苦手なもの:特にないですが、強いていうならゴーヤです

趣味:ゴルフ

休日の過ごし方:ゴルフ、スポーツジム、買い物、庭の手入れ


母親を若くに亡くし、絶望の淵からなんとか立ち直り、前を向いた学生時代

ーー学生時代はどのように過ごしていましたか?

海が近くにある三重県志摩市で生まれました。海に行けば友達に会える素敵な街でした。高校からは志摩市を離れた進学校に入学し下宿生活がスタートしました。先輩や同級生たちと楽しい日々を過ごしました。

下宿先の先輩がいたことから、バスケットボール部に入部しましたが、あまり本気で取り組んでいる部活ではなかったので早く辞めました。そこから一般的な学生生活を送りましたね。

ーー学生時代に印象に残っている出来事を教えてください

大学受験に失敗し浪人生活をスタートした矢先、母親に余命宣告が言い渡されました。あまりに突然の出来事だったので困惑もしましたが、「早く働いて結婚してお嫁さんを見せないと。」という思いが自然と芽生えました。その後は大学進学を断念し、将来性がありそうなコンピューター系の専門学校に進学しました。

そして、専門学校に入学してからまもなく、母親の訃報の知らせが届きました。

当時は学生だったこともあって、母親の容態はあまり詳しく教えてもらえていませんでした。どこまで容態が悪いのかなど全く分からない状態での知らせだったので衝撃を受けましたね。

ーー当時はどういう心境でいらっしゃったんですか

まだ学生だったこともあり、とても辛かったのを覚えています。当時は、自分自身のことを『結構苦労しているな』と感じていました。ただ、この辛い経験を乗り越えたことが自分を強くしたと思っています。その経験から社員に対しても、”若い時の苦労は買ってでもした方が良い”と伝えています。その瞬間は辛くても乗り越えることで、人は成長していきます。そしてその後の人生で逆境に直面しても、当時の辛い経験を思い出すことで、また乗り越えていくことができると思います。

エンジニアとして活躍し続けた会社員時代

ーー専門学校を卒業してからの進路を教えてください

卒業してからはIT企業に就職しました。今は上場していますが、当時はIT業界もまだまだ黎明期だったので、大学卒業後の就職先としては、あまり選択肢には入っていませんでした。そのため私と同じように専門学校を卒業した同僚がたくさんいましたね。

入社後は2週間程度の簡単な研修を受けてから現場に配属されました。最初はプリンターを制御するソフトの開発をしていました。半年ほど担当した後、固定電話の基地局などの設備を管理するシステムの開発を担当しました。

ーー当時の働きぶりやどんな業務を担当していたか教えてください

自分で言うのも何ですが、活躍していました。早い段階から成果を出し続け、20代半ばには15名ほどの部下を持ち、組織をマネジメントする立場になっていましたね。

当時は銀行がデジタル化を進めるタイミングで、1960年代半ばを第一次オンライン、1970年代半ばを第二次オンライン、1980年代半を第三次オンラインと呼び、銀行業務がどんどんオンライン化されていきました。その第三次オンラインが始まるタイミングで、東海地方の都市銀行プロジェクトにアサインされました。

定期預金や融資、信用リスク、銀行合併によるシステム統合など金融領域の様々な案件を経験しました。大手銀行からスタートしたオンライン化の波が地銀や信用金庫などにも波及し、プロジェクトが立ち上がると、「金融システム=井上」と顧客から指名されるようになりました。

システムのトラブルがあった時にすぐに駆けつけられるよう、当時は会社に数台しかない貴重なポケベル(今でいう携帯電話)を顧客から渡されてました。実際にシステムのトラブルが発生したときには、たとえ私が飲み会中であったとしてもすぐに駆けつけてトラブル対応したこともありましたね。

ーー成果を上げることができた秘訣を教えてください

仕事のスタンスとしては、”顧客に貢献すること”を意識して、とにかく一生懸命にやっていました。その結果、技術力と深い業務知識を身につけることができ、周囲から頼りにされるようになりましたね。技術力や業務知識だけではなく、『困っている人を助けたい』という想いをとても大事にして、頼りにして下さった方の困りごとを解決してあげられるよう誠心誠意向き合っていました。


頑張っている人が正当に評価される会社を目指し、起業を決意

ーーそれ以降どんなキャリアを歩まれたか教えてください

一般的なキャリアパスは、メンバーから主任→課長代理→課長と順番に上がっていくんですが、私は成果を出していたこともあり飛び級で課長に任命していただきましたね。最終的には30名ほどメンバーがいる大きな組織のマネジメントをしていました。

ーーここまで順調な様子ですが、辛かったことがあれば教えてください

仕事は順調でしたが、会社の人事制度に少し不満を感じ始めていました。飛び級で課長に任命されたまでは良かったのですが、その後も成果を出し続けても、人事制度がうまく機能していなかったため、一向に昇給できなかったです。おかしいと思っていたので、上司や会社には言い続けていました。

私の意見に理解はしてくれていましたが、なかなか改善されず…というやり取りが数年続きましたね。そして、私の上司だった部長が昇給したり、私より後に課長に昇格した人たちはなぜか私より高い給与からスタートしたりと、どんどん不満が蓄積されていきました。詳しい人事制度は割愛しますが、当時は”頑張っている人が正当に評価されていないこと”に違和感を感じていました。

ーーこれが起業を決意した理由ですか

先輩社員で独立している人もいたので、20代の頃から『いずれ自分も社長になろう!』と漠然と思い描いてはいましたが、この出来事が決心させてくれましたね。同僚にそういった想いを打ち明けている時もありましたし、自分の仕事には自信があったので、起業してもある程度はやれると思っていました。

そして、この出来事を機に、すぐに会社を退職し1人で起業しました。”頑張っている人が正当に評価される”そんな会社にしたいと思っていましたね。


【社長インタビュー_後編】積み上げてきた"信頼"が会社の成長の支えに。創業初期〜拡大までのストーリー | 株式会社トレンドアート
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