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好奇心とソーシャルインパクトを、いかにして両立するか。【事業開発マネジャー 中原亮】

鹿児島県霧島市に生まれました。


南北を桜島と霧島連山という活火山に挟まれ、

家庭のお風呂でも温泉が湧くような、大地の恵みを感じられる田舎町です。


私の地元に限った話ではありませんが、地域社会には、

「地元のいい大学を卒業し、地元の一流企業で働く」という王道があります。


かくいう私も、高校までは地元、大学は九州の国公立。

新卒で就職した会社も日系大手電機メーカーの関連会社。


キャリアの軌跡だけを振り返れば、

20代でスタートアップに飛び込むような経歴ではないと思います。


実際に、中高時代の友人や、新卒の同期には、

今スタートアップで働いている人は、一人もいません


そんな私が、ニフジに、3人目の社員として

飛び込むことができたのは、なぜだったのだろう。


その原点は、家庭環境にあったように思います。


決して、なにか特別な教育を施されたわけではないのですが、

逆に、子供ながらに持ち合わせている「好奇心」を潰された記憶がありません。


私の過去の意思決定の根っこには、

いつも「おもしろそう!」という内なる動機がありました。


一方で、福祉の世界で働く父の背中から、

「目の前のお金よりも、目の前の人を大事にする」生き方を学んできました。


ゆえに、単純な「おもしろそう!」だけで意思決定するのではなく、

「いかにして社会の役に立つか」「ソーシャルインパクトを残すのか」という意識も、

常にあったように思います。


「おもしろそう」「役に立てそう」

この2つの気持ちの表れが、今の私を形作っているように思います。


考えようによっては、東京に生まれていたら、

あまりの選択肢の多さに変な方向に迷い込んでいたかもしれません。


また、好奇心を潰されてしまう環境に育っていたら、

自分の人生ではなく、誰かの人生を生きてしまうキャリアになっていたかもしれません。


そういう意味では、多少の不自由はありましたが、地元の環境に感謝ですし、

少し恥ずかしいですが、両親にも感謝しないといけないですね。


私の好奇心が爆発したきっかけは、

中学校の修学旅行で訪れたシンガポールでした。


なぜ鹿児島の中学校の修学旅行がシンガポールだったのか、

今となっては本当に謎なのですが、間違いなく私の興味が世界に向いた瞬間です。


貧困と戦争。宗教対立や人種差別。経済格差、人権侵害、多文化共生。etc… 


日本ではなかなか実感しにくい諸問題が、

教科書の世界ではなく、現実世界の問題なんだと、

身をもって知る事ができました。


この時の想いが高じて、国際関係学を専攻するに至りました。

大学在学中、コロラド州というアメリカ中西部に1年間留学しました。


せっかく留学するなら、現地にどっぷり浸かりたいと思っていましたし、

アジア人がほぼおらず、母校の提携大学としては1人目の派遣校というのも、

好奇心がそそられたのを覚えています。


現地で活動していたある日、

小高い丘から、メキシコとアメリカの国境線を見る機会がありました。


国境線という人工物が、

見渡す限り、直線的に世界を隔てていました。


国境線の成り立ちや歴史的背景、現代の不法移民の問題は、

私なりに問題意識を持っているつもりでした。


ですがその時、自分の中でひとつの想いが熱を帯びるのを感じたんです。


「国境線が、貧富の境目、命の境目であってはならない」と。


その天啓のような想いが、なぜそこで急に芽生えたのか、

理屈では説明をつけられません。


おそらく、これは私の人生を通じて初めて

「社会問題が自分事化した瞬間」だと振り返っています。


一方で、この問題の解決や現状変更を、

熱意でどうにかできるわけがないことはわかっていました。


この想いを、どうやってキャリア選択に繋げたらいいのか。

悩みに悩みました。


また、国際関係学は、その学問の性質として、

幅広く世界を学べる一方で、現場で使える専門性が身につきません。


やりたいことはあるけれど、結局自分は何もできないじゃないか…


そんな悩みを抱えていた際、

国境なき医師団やJICAなどのエキスパート集団の隣には、

一流のロジスティシャンがいることを知りました。


必要とされている物が、必要とされている場所へ。

国境線を越えても、確実に届く物が届く世界を実現すること。


これが私の想いにピッタリとハマり、好奇心に火が点きました。

そして、私は「物流」の世界に飛び込むことになります。


就職活動では、物流を軸に数社を受け、

「半導体から人工衛星まで」という

日系電機メーカーの物流部門の文言に魅せられて入社を決意しました。

日系電機メーカーは「斜陽産業」などと揶揄されることもありますが、

その事業規模とネットワークは、いまだ世界屈指のレベルです。


実にエキサイティングな環境で、

PJTの大きさに、圧倒されることも少なくありませんでした。


入社から3年、真剣に仕事に取り組みました。


結果的に、半導体の航空輸送の仕組みを理解し、

いくつかPJTを任されるようにもなってきました。


その一方で、規模の大きさと人員の多さゆえの、

システマチックで、オペレーティブな作業ワークと、

40代、50代でやっと一人前と言われる成長スピードには

徐々に焦りを感じるようになりました。


生き急ぐ必要のない安泰な環境でしたが、

いまこの瞬間にも、ものが届かなくて失われている命がある現実世界への想いが、

私を次のステージに突き動かしたように思います。


学べることは、まだまだたくさんありました。

でも、これ以上ここにいては、好奇心の火が消えるような気がしました。


転職活動は、就職活動と違い、専門性が問われます。

私の場合、その専門性は物流の中でも「航空輸送」でした。


航空輸送は「軽くて、繊細で、速く届ける必要のあるもの」を扱います。


私が扱っていたものは、半導体の航空輸送でしたが、

他に航空輸送されるものは、「生鮮食品」と「医薬品」が挙げられます。


そういう意味で、私が選択すべき商材は、一択でした。

こうして私は、医薬品の航空輸送のスペシャリストになりました。

現在ニフジでは、

諸外国の医薬品を輸入するオペレーション責任者を担っています。


私には、特定疾患を抱える家族がいることもあり、

医薬品を早く届けることがどれだけ重要なのか、理解しているつもりです。


いま扱っている医薬品のメインは、海外から日本への輸入ですが、

これからは、日本から海外へはもちろん、海外の国同士も繋いでいきたい。


ロジスティシャンとして、

医療流通の流動性を高め、必要な医療をもっと届ける仕組みとネットワークを

構築していきたいと思っています。

実は、今、ニュージーランドに短期滞在し、

遠隔で仕事をさせてもらっています。


世界から日本を眺めることで、

新たな気づきを得られますし、自分自身をアップデートできます。

こんな働き方が許されるのもニフジならではではないでしょうか。


また、新卒からプロボノとしての活動を続けています。


社会問題の解決は、ビジネスだけではできないことがどうしてもあるのも事実。


だからといって、低賃金な世界に身を置いて、

自己犠牲の消耗戦を続けていては、長続きしないことも事実です。


また、私自身、ロジスティシャンとしての専門性は磨きたいと思いつつも、

それが「ニフジのマネジャーとして一流になる」ではダメだと思っています。


違うペルソナを同時に抱えることで、

ひとつの考えに凝り固まらずに新しい発想が生まれることも期待できます。


そういう意味で、プロボノとしての活動も、真剣に取り組んでいきたいと考えています。


そして何より、こういう考え方を、代表の後藤が奨励してくれています。


ニフジには、私の好奇心を刺激し続けられる環境が、

本当にたくさん詰まっています。


そして、ニフジというフィールドを利用して、

社会の大きな問題の解決に貢献できそうだという予感を持てています。


これからも、自分自身の好奇心に従いながら、

いかにして、ソーシャルインパクトを残していくか。


また、ニフジという会社をどう大きくしていくか。

ワクワクしながら考えていきたいと思います。



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