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【創業ストーリー:前編】IT起業家に憧れた山形のバスケ少年は

今回はsteer株式会社の代表である佐藤に創業にまつわるエピソードについてインタビューをさせていただきました。

佐藤の生い立ち?から、steer創業にいたるまでのライフストーリーに迫ります。




ー佐藤さん、では自己紹介を(笑)

はい、1988年3月23日生まれ、山形県出身です。こんな感じでいいですか(笑)

ーすいません、お見合いではないので…そうですね、ビジネスとの出会いから教えてもらってもいいですか?

ですよね(笑)

 ビジネスとの出会いは大学時代です。1年生の時にちょうど世間はライブドア・ショックでITや起業家が話題になっていました。ITとはなにか、なんて当時はよくわかってなかったですがなんとなく経営したい、起業したいなんてことを思いながら過ごしていた覚えがあります。

 アルバイトは時給が高いという理由だけで、インターネット関連事業の代理店営業をしていました。そこでたまたまバイト先の先輩が独立するという話になって、一緒に会社の立ち上げをすることになりました。


ー就職活動はしなかったんですか?

もちろんしました!私の就職活動時期がちょうどリーマンショック後の氷河期で世間全体が暗い印象があったんですよね。なので、このまま就職していいのか?といった疑問を抱きながら進めていました。

 バイト関連で経営者の方と接点を持つ機会が多かったんです。ある経営者から「勉強もスポーツも成功して結果を出すには、少なからず才能は必要だと思う。ただ仕事は広いフィールドがあって、成功するための道筋は自分次第で無限にある。だから仕事は面白いよ。」と言われた言葉が妙に印象に残っていて…きっと強豪校でバスケをしていて、思ったように結果を出せなかった自分の支えになっていたんだと思います。

 ただ当時、就職活動をする中で会う採用担当者の方々からは仕事を楽しんでいる印象を得られなくて。なので、先輩から一緒に立ち上げをしようと誘われた時に抵抗なく、無邪気に首を縦にふってしまったんだと思います。


ー実際に働いてみていかがでしたか?

立ち上げた会社はバイト時代にやっていたものと同じ業態で、インターネット関連事業の販売代理店でした。固定給はほぼなし。自分が売上を立てれば給与をもらえて、営業結果が出なければ給与もほぼ無いという苛酷な環境でした。

 最初はメンバーが5人いたんですが、8割くらいの売上を私が作っていた覚えがあります。今、振り返ると「ここで営業結果を出せなければ死んでしまう」くらいに自分を奮い立たせていたように思います。その熱意もあってか、組織は大きくなっていって順調に利益も大きくなっていきました。そんなタイミングで東日本大震災が起こり、東北地方を主要拠点にしていた私達は大きく影響をうけることになります。



この仕事をして誰が幸せになったんだろう

ー震災で仕事ができなくなった?

厳密には少し違います。確かに東北エリアはインフラ機能が止まりしばらくの間営業ができないだろうという状態になりました。ただ、中部エリアにも取引先の拠点はあったので仕事は継続できました。

 それが良くも悪くもあって、3月11日に被災した私達社員は売上を作らないと会社が回らなくなってしまうため、3月13日には名古屋に出張して仕事をしていました。その時にふっ、と私を含めメンバーみんなが冷静になったことを覚えています。

 家族・友人が被災して、世の中はこの震災をどう乗り越えていくかに一生懸命になっているのに、売上を立てるために震災2日後には他の支店で商材を売っている…一体、何に夢中になってきたんだろうって。社員にも顧客にも価値がない仕事をしてしまっているんじゃないか、値引きやキャンペーンを切り口にただインターネットという商材を自転車操業で販売しているだけだ。”これでは関わる人達を幸せにできていない”と改まったんです。当時の漠然とした虚しさを表現するのは難しいのですが、メンバー全員が近しい感情を覚えたのではないかと思います。

 ひと区切りをつけて出直そう、と思い転職活動を始めました。





ー転職活動はどんな軸で進めたんですか?

その時も、起業したいという思いが消えませんでした。なので、経営者に接点がとれること、そして1社目の経験からモノ(商材)ではなくコト(価値)を売れる人材になりたいと考え無形商材を中心に見ていました。

 数社検討した後、自身の成長環境があると考え株式会社キャリアデザインセンターに入社を決めました。それが人材業界の入り口になりました。

ーそこで人材業界に出会うんですね。

はい。キャリアデザインセンターでは約5年勤めました。プレイヤーとして入社し、後半はマネージャーを経験させていただきました。

ーある意味、大きな組織で働くのは初めてのご経験だったと思います。率直いかがでしたか?

そうですね…非常に勉強になる経験でした。一方で、やっぱり”組織の一員”として働くことにはすこし違和感を覚えていました。これは自分の性格の問題だと思うのですが、自分の意思決定をする場面がなかったように感じていました。

 もちろんマネージャーなので権限はあるんですよ。ただ、上司の顔色をみて、メンバーが求めている答えを伝えて…と、どこか他人の家にお邪魔しているような感覚が取れなかったんです。余談ですが、この感覚は今の会社創りの礎になっていて、今のメンバー達にはこう思ってほしくないと心から願っています。



ー1社目の手触りと違ったんですかね…ただ、その後にパーソルキャリア株式会社とさらに大きな組織に転職されたのはどうしてだったんですか?

キャリアデザインセンターでは求人媒体の広告営業をしていました。今の経験を基に独立するとなると、また代理店をすることになるじゃん!と今更ながら気づきまして(笑)。そこで独立を前提に最後の転職をしようと考えました。

 その時に、たまたまヘッドハンターの方とお会いしました。その方にヘッドハンターってどんな仕事なのかヒアリングしたんですね。すると「事業を変える”ヒト”をクライアントに届け、会社に大きな影響を与える仕事です」と返ってきました。うん、率直にかっこいいって思いました。当時は求人媒体を提案する仕事でもちろん価値もあり、やりがいもありました。ただ、経営に直結する人材の採用には関わらないので、その影響力の大きさにワクワクしました。

 転職活動を進め、希望通りパーソルキャリアのハイクラス人材ヘッドハンティング部門に入社することになりました。ここは各ヘッドハンターが個人事業主的に動くやや特殊な部門でした。

ーそうなんですね。であれば、手触りもあってスキルも詰める理想的な環境だったんじゃないですか?

そうです。当時自分が求めていた内容に非常に合致していました。ただ、一つすごいショックなことがあり…不動産・建設チームへの配属になったんです(笑)。


不動産・建設業界には数十~百億を動かして、街をつくるプロフェッショナル人材がいる

ーえ(笑)steer株式会社は不動産・建設に特化したヘッドハンティングをしていますが、当初はショックだったんですか。

正直、すごいショックでした。あ、もちろん今は不動産・建設業界に対してリスペクトがあって、本当に面白いビジネス領域だなと感じています。

 当時不動産のことを何も知らない私は、事務所でタバコを吸いながら土地を転がす上司と、ひたすらピンポン営業をする若手社員がいるとにかくブラックな業種。建設業はもっとわからず、ヘルメット被って仕事している人達がいるところくらいのイメージしかなかったんです(笑)。

※当時、佐藤が思い描いていた不動産業界をAIに描いてもらいました

 冒頭、話していたようにライブドア・ショックの頃に私は青春時代を過ごしました。私にとってヘッドハンターとは”時代の最先端を走るIT企業の経営者達と商談を重ね、業界にインパクトを与える人材登用を陰で支える”そんな六本木ヒルズにいそうな人だったんです(笑)

ーそうですか(笑)そこから不動産・建設にのめり込んでいくストーリーも是非聞かせてください。

そうですね、端的にいうと調べると全然イメージと違ったというだけです。

 デベロッパーは多額の予算を基に行政・住民・関係会社を巻き込んで、まっさらの土地に絵を描いて、素敵な街を創っているんだ。ゼネコンはデベロッパーと協業してデザイン性と安全性両面ある未来の建物を建ているんだ…と。多くの関係者が関わるので、PJを進めるのは大変な仕事だと思います。ただ、私たちが見ている視点では、非常に大きな金額がシンプルに動いて、事業が完成されていく。そのダイナミックさに面白さを感じました。あー、見方を変えるとこれが”街づくり”なのか、と。

 不動産・建設領域にのめり込んでいくと、業界やそこで働く方々の課題が明確に見えてきました。そうすると順調にヘッドハンターとして結果がついてきて、”独立”という思いが再燃することになります。

今回のストーリーでは佐藤のルーツに触れ、steerが生まれる背景について記載させていただきました。次回は実際にsteerが創業されたエピソード、そして今後のビジョンについて迫りたいと思います。


















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