もうひとつの苦しみとトラウマ。
リハビリテーションセンターから退院して、母親と喧嘩する日々が続きました。高校1年生の時(※#1参照)に家や財産をすべて失ったため、母が祖父に頭を下げて、祖父母が暮らす一軒家に私が帰れるように説得し、和室をフローリングに改修して、なんとか帰れるようにしてもらいました。
嫁姑の確執があり、決して母と祖母の仲は良好でありませんでした。私は、その関係性を見るたび心が苦しくて、苦しくてたまりませんでした。今でも女性のネガティブな感情に対して、反射的に恐怖心を抱いてしまうのは、きっとそのトラウマに身体が反応してしまうからでしょう。
きっと、祖父母も孫が困っている状態に情けをかけてくれたのでしょう。快くとは言いえませんが、私を家に迎え入れてくれました。ただ、母にはすごく厳しく当たりました。それを見るたびに責任を感じ、「ああ、あの時、車に同乗しなければ、こんなことにはならなかったのに、、、」と後悔し、自分を責める日々が続きました。いくら後悔しても、もう過去の自分は帰ってきません。毎日が身が引き裂かれるような、辛い日々が続きます。
お友達はテレビだけ。現実逃避する日々。
毎日、全くすることがない日々、、、在宅生活は続きます。朝起きても、ずっとテレビを見ていることしかすることがありません。生きる希望も、目的もない私は、朝起きる意味すら、見出せませんでした。
頭の中では、どうしようもできないもどかしさ。自分の身体が動かない苛立ち。悶々とした感情が湧き上がってきて、ぐるぐると永遠に色々なものが渦まき、交錯しながら巡ります。そのうち、朝起きることすら億劫になり、お昼ぐらいまで、寝ている生活になってゆきました。
みるみる生活のリズムは崩れて行き、起きている時はテレビを見ている生活。気が付くと面白いテレビがやってる夜間帯の中心の生活になってゆきます。テレビはお友達。当時の番組表はすべて頭の中に入っていて、何曜日、何時の〇チャンネルと言われれば、すべて答えることができました。私にとって、寝ている時間とテレビを見ている時間は、唯一、現実から逃れられる時間でした。
母にケアを受ける抵抗もあり、車椅子に移乗してもらう回数も減ってゆきました。車椅子に移乗したところで、車椅子でテレビを見るということしかすることもなく、何の意味も感じません。次第に車椅子にも移乗しなくなり、ベッドで一日中過ごす、寝たきりの生活の中心になっていきました。
社会との接点は、唯一、訪問看護師さんの週3回のケアのみ。母や兄弟以外の人間と話せる機会は、その時間だけでした。私にとっては、その時間が自分の気持ちを吐き出せる時間となりました。
地元春日部で。車いすユーザーな障がい者。
在宅生活も慣れて、イイ感じに引きこもり、腐り始めたころ、見かねた訪問看護師さんが同世代より、ちょぴっと上の障がいを持つ方を紹介してもらいました。わざわざ私のお家まで足を運んでいただき、当時20代後半くらいだった方だと思います。初めて地元で同世代の障がいを持つ車椅子ユーザーを目の前に、若くてこうやって地域で住んでる方もいるんだ。と、驚いて記憶があります。
話を聞くと、彼は進行性の難病でどんどん身体の機能が衰えて行くとのこと。その時は、若干手は動いて、動いてゲームやPCをやっている。お仕事も在宅でやっているのを聞いて、障がいがあってもゲームや、仕事をしながらできるんだ。一言に障がいと言っても、色々あるんだなと初めて知りました。
また、外出や旅行もたくさんしていて、アクティブに動いている方でした。彼女もいて結婚の予定もあるということで、障がいがあっても外出したり、旅行したり、恋愛したり、結婚したりしている方を目の当たりにして、すごいなあと感心した記憶があります。
その方がおっしゃっていた印象的だったのは、自分は難病なので、いずれは全て動かなくなる。だからこそ、今のうち、やりたいことをやっていると。それが自分の心に残りました。また、結婚も予定されていて、ハンデがありながらも、奥さんもすごい方だと思いましたし、どんどん人生を楽しむ姿に何か不思議と、あーこういう人生の歩み方もあるんだなと漠然と経験を得た記憶があります。
最後に今度、中華とディズニーランドに行く約束をして、初めての地元で障がいを持つ方との面談は終わりました。
本当に私が欲しいもの。
初めてロールモデルとなる、先輩の車椅子ユーザーと出会ったにも関わらず、不思議と羨ましいとか、自分もああなりたいなど、とても思えませんでした。
それは、おそらく本当は動けるはずだった自分が、まだこうやって障がいを負い、動けなくなり、母親と毎日口論を繰り返しながら、自分が障がいを抱えながら、一生、生きていくことを全く受け入れられなかった、認めたくないからだったと思います。
私は、当時は障がいを抱えながら車椅子で、出かけられる、遊べる、仕事ができる、恋愛できる。ってことがしたいわけではなかったのです。母親や他人にお世話になりながら、依存する生活から抜け出したかったのでしょう。自分で何もできない。この不自由な身体である状態から抜け出したかったのでしょう。今思えば、だから、そこに希望は見出せませんでした。私が望むのは、母や家族から解放され、自由な身体を手に入れたいことでした。
今こうやって書いていて思うけど、この頃から自立にこだわっていたのかな?
ですが、自分で自ら行動するわけでもなく、テレビがお友達のベッドに寝たきり生活は続いていくことになります。
【#3】へ続く...