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【#1】なぜ重度障がい者の私が起業したのか?(事故編)

九死に一生。中途半端な?重度障がい者に。

 当時18歳の時、商業高校を卒業後、株式会社ヨークマート(現セブン&アイ・ホールディングス)に入社し、精肉部に配属されました。入社わずか3か月後、予想だにしない交通事故という、人生最大のアクシデントが起こりました。

 幼少期からサッカーをずっとやってきた、超健康で五体満足だった私は、その事故で身体の胸から下が動かせなくなり、いわゆる重度障がい者になりました。その時まで、生きているのに身体が動かせない、という中途半端な状態があることに驚きました。毎日がとても苦しくて、苦しくて、逃げたくてたまらない、頭を引きちぎりたくなる入院生活の日々が続きました。

 高校1年生の時に、バブルの影響で家業が倒産し、サッカーコートくらいある家の敷地(1000㎡くらい)10LDKくらいの日本家屋や土地の財産をすべて失いました。一転、アパート2間の生活へ。家族がバラバラになりました。江戸時代から400年続く、長男として生まれ「お前が跡取りだ」と厳しく育てられ、夢を持ったことも許されなかった私は、幼少期からずっと信じて、心の支えだったものをすべて失いました。

 その時、悟ったのです。「この世には神も仏もないんだ。世のため人のためとか、もういいや。真面目に頑張って生きても報われない。自分勝手に生きていこう。もうどうなってもいいや、、、」そんな時にに起こったのが交通事故でした。正直言うと、まさか生きるでもなく死ぬでもなく、中途半端な状態があることを、私はこの時初めて知ったのです。


命を守るため?手術を繰り返す日々。

 交通事故は命を失いかけるほど大きなものでした。頸椎を損傷したので、救急で運ばれ休日を挟んでの緊急手術。手術は成功したものの、急変して呼吸困難に陥り、人工呼吸器を装着することになりました。

 意識が戻ったのは約1か月後のことでした。目の前にうっすらぼんやり看護師さんがいて「山口くん?!気がついた?!」という言葉を耳にしたのが記憶によみがえります。

 その時言葉を発することができませんでした。人工呼吸器をつけていて、のどに穴が空いているためです。会話はすべてアイコンタクトで訴えるか、文字盤を使いコミュニケーションを取るという日々が続き、大量の薬を投与、延命治療に奮闘する日々が続きました。すべてアイコンタクトで意思を受けっとくれた看護師さん今でも元気かなぁ。救われた思い出です。

 そんな中、リハビリテーションセンターへ転院する話がもちあがりました。「もしかしたら治るかも?動けるようになるかも?」という期待を持ちながら、床ずれ治療のため、皮膚移植などの手術を繰り返し、リハビリテーションセンターに転院することになります。

思い知った。障がい者が歩む道。

 約1年後、なんとか無事にリハビリテーションセンターへ転院。そこでは自分で運転でき、移動できる電動車いす。毎日、理学療法士さん、作業療法士さんにリハビリしてもらえる。看護師さんは頸椎損傷者に対しての適切な対応をしてくれる。ベッドでチューブにつながれて寝たきりな以前と比べて夢のような日々が続きました。

 車椅子に移乗してもらえれば、なんとか自分で移動できることを知りました。今までの入院生活とは違い、かなり自由が増し行動範囲も広がりました。ただ、一人では何もできない。1日中暇な時間が延々と過ぎ去ります。

 また、「あなたは障がい者として一生を生きるのよ。」「人のお世話になるのだから、人のことを第一に考えなさい。」「治るなど、夢物語言ってないで現実を見なさい。」などの言葉をもらい、「ああ、この先自分は、障がい者としてずっと生きていくんだ、、、」という悲しい思いになったことを、今でも思い出します。

 自宅に帰るためにアメリカ製の電動車いすの給付申請をしていましたが、当時のお医者さんに「ぜいたく品だ!」と見事に却下。自宅に帰るのは大変だから、入院を継続してリハビリしたい希望も難しいと一蹴。転院先受け入れがないので、自宅に帰ってほしいといわれ、日本の医療福祉制度の厳しさ、これから障がい者として生きるための国のサポートも限られていると思い知らされながら、なくなく自宅へ帰ることになります。


なぜ私だけ?お世話になるのが申し訳ない。

 自宅に帰ってからは毎日、母親と喧嘩の日々でした。母親も私が事故で障がいを負ったことを受け入れられていないのか「リハビリしろ!お前は動けるようになりたくないのか?」と私を罵倒し口論になり喧嘩をする日々が続きました。

 高校を卒業して、一番苦労をかけ、恩返しをしたい母親に面倒を見てもらうということは、私にとって地獄の日々でした。これでも幼少の頃から、一生懸命頑張って生きてきたつもりなのに、「なぜ、私だけがこういう目にあうのだろう?」友だちや同級生は、みんな友だち同士遊んだり、恋愛したり、就職して給料をもらって、やりたいことをやって生きていくことが許されるのに、、、なぜ私だけは、許されないのだろう?と神様を恨んだものです。

 この時にやっと訪問看護さんに週3回程度お世話になり、一生懸命励まし、ケアしてくれて、「あぁ、世の中にはこんなに優しい人たちがいるんだな。」と知りました。ずっと冷めた人生を生きてきた、私が人の温かさを感じました。

 無知で世間のことを何も知らない。生きる希望がない私の支えになった記憶があります。それと同時に、人にお世話になることの申し訳なさ、葛藤する日々が始まりました。

【#2】へ続く…

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