高校時代、僕の出席番号が28番、ひときは29番だった。
出席番号順でシンプルに席を決められてたので前と後ろの席。僕が授業中居眠りをしているとひときは鉢植えの水やり用の霧吹きを僕に吹きかけてちょっかい出したり、色々とふざけ合っていた。
高校1年の下校途中、僕らは雑貨屋に寄り道をした。その時のことを今でも鮮明に覚えている。既に学生生活で常に前と後ろの席で打ち解けていた僕らは、「いつか一緒に会社なんかできたら本当に面白い人生になるのにな〜」なんて話しをていた。
雑貨屋さんのセンスのいいイケてる店長は僕らにこういった。
「高校の青春ではよくある話だよな。でも大人になってみればわかる。なかなか高校時代の友人となんて夢は叶わないんだ。現実は甘くないんだよなぁ。」
僕はこの時まだまだ子供で、ちゃんとした大人が突きつけてきた現実がとても寂しくも感じたし、ただ、ひときとだったらできる気もする、いやいつか会社作って見返してやろう!と思った。
高校を卒業すると、僕らは互いに大学で地元を離れ、ひときは大学を卒業した後、総合商社で働いていた。一方僕は大学中、別の友人と東京で起業のマネごとのようなことを始め、学校もロクに通わずやっとのことで大学を卒業し、少しでも所属があったほうが事業がうまくいくんじゃないかということで大学院に残り、泣かず飛ばずのEコマースビジネスをしていた。(謎にオランダの哺乳瓶とか売っていた笑)
本当になにもかもうまく行かないことが続き、今後の自分が進むべき道など悩んでいる時、香港に駐在中のひときより連絡をもらった。「一緒に地元で起業しないか?」
僕らの地元は富士山のふもとにあり、2013年、富士山は世界文化遺産を登録を受けていた。
僕らは高校より打ち解けていて、大学ではバックパッカーで旅をしたりした。今でも旅行は共通の趣味だ。
その頃行ったタイのカオサン通りは色々な人種が溢れており、混沌としているけれどどこか落ち着く、そんな雰囲気が、僕は大好きだった。
「一緒に地元で起業しないか?僕らの町もカオサン通りみたいになるかもしれない。」
東京でうまく行かず、くすぶっていた僕には、この誘いはとてもワクワクする新しい扉が開いたような瞬間だった。
2014年、僕は地元に戻り、これから増えてくるであろう訪日観光客を相手に何かしようと考えていた。ひときは香港からアイディア出しをして、Skypeで会議をし、実際僕が地元で動くという役割分担だった。
今思ってみればコロナ禍以降の働き方をかなり早くからしていたんだと思う。笑
この頃、お金もなく、東京に長く居た分地元に友達もほとんど居なかったけれど、新しいことが始められるということでとにかくワクワクしていた。
そんな中、僕らはまず外国人が泊まれるゲストハウスを作ろうという話になった。
人生は面白いものだ。昔弁護士になりたいとか、田舎なんて捨てて都会でキラキラしたところで働くとか、そんなイメージがあったのに、僕はその地元の田舎で宿屋のオヤジになるのか。
なんか明らかにかっこ良くはなさそうだけれど、それでも自分が予期しない人生、それもいいな、
なんてその時ふと思った。これは今でも僕の大切なモットーだ。
先のことが予測できない、見通すことができないような人生にしたい。そのほうが一度しかない人生面白そうだからだ。
それから僕は地元の知り合いなどのつてで貸し家を探したり、良さそうな空き家があるとチラシなどを手当たり次第ポスティングして、貸してくれるような物件を探し回った。
ただなかなか思うようなところが見つからず、少し諦めかけていたところ、僕の父がやっている床屋さんの常連のおじいさんがそれまで住んだ家を出ていったので貸してくれると言うことになった。
僕はとても嬉しくなり、すぐ借りたいと思った。
その時ひときも香港から帰ってきているタイミングで二人で所有者のおじいさんにお願いしに行った。
「もう俺は息子が新築を建てたから、そこに引っ越したんだ、好きに使ったらいい」
そのおじいさんは快く話を受けてくれた。物件をまだ良く見ていなかった僕らは、おじいさんに連れられ物件を見させてもらった。
(うーん、ボロい .....ボロすぎる....)
お世辞ともきれいとは言えず、古い昭和の民家。床もミシミシとなり、ところどころ足が抜けそうだった。
そしてなんといってもトイレは汲み取り式!
二人でこの古さに驚愕し、不安を抱きつつ顔を見合わせた。
でも、苦い顔をお互いしていたけれど、「きっと、この物件でやっていくしかない」と二人共心の中で思っていたと思う。
僕らの資金はたった数十万。これを元手に、できることを考えた。
もちろんすべて僕らの手作業。何もしたことがない素人の僕らで作り上げるしかなかった。
なるべくかっこよく見せるように、ボロい雰囲気がバレないように暗い色合いでペンキを塗ったり、友人の解体屋さんの現場にお邪魔して、かっこいい古民家家具をもらいに行ったりした。
アンティーク調のソファはその当時まだサービスインして間もなかったジモティ。
僕らの身の上話をしたら建築会社の社長さんがタダで譲ってくれた。
こうして僕らの最初の物件 「FUJI TRIP HOUSE」 ができた。
名前はシンプル。海外の人が検索しやすいようにということだけを意識して付けた名前だ。
はじめは個人事業主で始めようと思ったが、許可の関係で法人にしたほうがいいということになり、
合同会社カラーが誕生する。
このときは僕らは本当になにも知らない状態で、周りの人に助けられながらなんとか形にしている状態だった。
香港に帰ったひときと電話越しにビールを飲みながら、会社設立おつかれ会をした。
東京で泣かず飛ばずだった僕は新しい起業準備にワクワクしながらももちろん不安もあった。
だから聞いた。
「この会社は売上あげられるかな...いくらくらい儲けけられるんだろう?」
ひときは即答した。
「とりあえず5000万。」
アホかと思った。
ボロボロで汲み取り式のトイレで、足は抜けそうな床で....
でもこの頃の僕はまだ知らない。
100人を超えるスタッフが関わり、宿泊・飲食・不動産・リフォームなどを手掛け、最初ひときが言った5000万円よりずっと多く、桁がちがう金額を稼ぎ出せる会社になっていくことを。
これがカラー最初の一歩だった。