何か言葉を発した瞬間に肯定も否定も過去も未来も情報の一つとなり相対化されていく。
相対化された意見の単語が切り取られ傾向と割合に分類され社会が形成されていく。だから、何かを発した瞬間にその他大勢として個が埋もれていく。何かを発したいという個人の思いを発信した瞬間に個が失われていく。本末転倒だ。
だから、何かを言うことがほとんどバカらしくなってくる。本音が埋もれ、いつしか本音すら見えなくなる、誰もが本音を語らない。心の少しの揺れを発信するのも情緒的なものに価値があると薄っすらと感じながらも発信した瞬間に相対化されていく。本音を正しく語ろうと思えば、もはや黙るしかない。
分からない事があると、スマフォを使ってすぐに調べることが当たり前になったが、ガラケーでネットが見られるようになった当初、飲み屋で話ながらわからないことを携帯で調べようとしたら当時の社長に怒られた。
「調べるんじゃない」。
正解が必要なわけじゃない。知ってしまったら想像力をかきたてながら会話をすることが終わってしまう。その場をしらけさせないためにも調べない、今までの経験と知識で勝負する。そんな事を飲み屋で教えられた。
「酒を飲むなら知識人であれ」
その後、年配者と話をしてわからないことがあると本を読んで調べて次までには知った顔をしていた。酒飲みのオヤジ共には負けたくなかった。
今はすぐにスマフォで調べ納得することが当たり前になった。それに対して怒られたりすることも怒ることもなくなったが、スマフォでスクロールしながらどこか目の前の人を気にしている。こちらがスマフォを眺め出すと、相手もスマフォを眺め出す事が多い。ホントは“今”を共有して欲しいんじゃないかと思う。そんな些細な感情も情報の前では無意味な本音となりつつある。
2019年8月20日の社長ブログより