今回、CEOのテンさんにこれまでの歩みや創業エピソード、カーボンナノチューブの未来などのお話を伺いました。
タイムスリップ 〜50年後の未来に来た小学生時代〜
日本で生まれ育った同世代の人たちにはわからないかもしれませんが、
私は中国の電気も水道も無い「世界ウルルン滞在記」に出てくるような村で生まれ育ちました。
6歳になってようやく村に1台だけやってきたテレビはまだ白黒でした。
文化大革命の影響で十分な教育が受けられなかった父は、砂を噛むような思いをして上海で大学に進学、その後東京大学へ留学。私たちも父と一緒に日本にやってきました。
その頃の日本は中国の50年くらい先をいっている印象でした。
言葉も全くわからず、しかもいきなり50年後の未来にタイムスリップしたような感覚の私に、
「徐々に慣れる」という余裕は全くなく、とにかく必死に周りについていくだけ精一杯でした。
しかし、この時の想像を絶する体験が私を強くしてくれました。
中学1年の終わり頃、ある日突然日本語がわかるようになったのです。
それまで周りのみんなが私に笑いかけているのを”馬鹿にしている”と
大きな思い違いをしていたことにも気づけました。この貴重な体験は今でも鮮明に覚えています。
これがきっかけとなり、より深く日本の文化を理解し始めました。
その後、父のすすめで中国の高校へ進学することになりましたが、
今度は生まれた国で苦しい思いをすることに、、、
当時、中国はまだ日本に20年は遅れているという印象でしたが、入学した高校は学業のレベルが高く、
日本に良い印象を持たない教師からいじめとも言えるような扱いを受けたこともありました。
受験勉強と記憶喪失 筑波大学へ進学
再び日本に戻り、大学受験をしようかと考え始めていた頃、中国の仲間から
「日本の入試レベルは高くない」と聞きその言葉を鵜呑みにしてしまいました。
ところが、日本へ戻りセンター試験の過去問題を見て愕然、、、「どこがレベルが低いのだ!」と。
結果的には無事に筑波大学へ入学することができたのですが、
実はこの受験勉強期間の記憶が全くありません。記憶を無くするくらい猛勉強したのか、
それともあまりにもキツかった体験から逃れるために自分で記憶を消してしまったのか。
それすら思い浮かばないのです。
▲学生時代から起業まで、苦楽を共にした愛用の鞄
未来が見える。原体験
大学では、会社を運営していく上での価値観の基本となる経験をしました。
当時私はTISA(Tsukuba International Student Association)という留学会の会長でしたが、
留学生たちの交流が活発ではなく“もったいない”と感じていました。
そこで私は、交流のためのイベントを企画することに。
国際会議場を抑え、全国の大使館、つくば市の市長、議員、国会議員から無謀にも天皇陛下にまで招待状を出し、近隣の企業から商店街に至るまで寄付を募り、最終的に1000万円ほどの広告費集めることができました。
最初は5名ほどで始めた企画ですが、最終的には200名まで増え、つくば市長や議員、20の大使館代表、大学学長にご参加いただき、警察が整備をするほどの大規模なイベントとなったのです。
当初は誰もが「できるわけがない」と否定的でしたが、私には成功してみんなが笑顔で喜ぶシーンが、
はっきりと頭に浮かび見えていました。
この経験を通じて私が得たものは「やりたいと思ったことは行動すれば必ずできる」という確信に似たものです。その経験から具体的な成功のイメージが頭に浮かび、見えるようになったのです。
アメリカで起業
筑波大学で修士、東京大学で博士課程を修了したのち、
オーストラリアのCSIRO(連邦科学産業研究機構)から招聘科学者として招かれました。
その後アメリカのデラウエア大学でポストドクターからパーマネント(終身ドクター)となりました。
その後日本で教鞭を取りたいとも思いましたが、アメリカでは多くの学者が大学に籍を置いたまま起業していることに触発され、同僚の研究者と共に起業することになります。
当時、私が所属していた学科の教授はなんと全員が起業していたのです。大学で研究しながらその成果を事業に結びつける。当時それは非常に理にかなったものであると感じていました。
その後、いよいよ深圳でカーボンナノチューブ(CNT)の量産事業を始めるべく起業します。
私が中国出身ということもありますが、当時深圳はベンチャーへの投資が盛んで資金調達がしやすかったことが一番の理由です。
そして、研究開発機関は日本と米国に設けました。
なぜなら、日本は今でもカーボン素材開発の分野では圧倒的に世界をリードしており、
その分野で新しい事業を始めるに適したリソースが揃っていたからです。
CNT生産のための基本的な技術が確立したタイミングで、さらなる分野でCNT本来の優位性を拡大しようと考えましたが、すでに安定した事業展開をしていた深圳の会社では、さらに多くの人材を確保し、広い分野へ拡大していくことが難しいと感じ、2022年1月、日本でカーボンフライを立ち上げたのです。
離陸寸前
CNTの社会実装に向け多くの方々から賛同を得て、高性能CNTの量産の準備が整いましたが、
まだ何一つ成し遂げているとは言えません。まだまだ、既成の価値観にとらわれず、夢の実現に向けて一緒行動してくれる人を求めています。社員は40名以上になりましたが、今これから参画してくれる人たち全てが創業メンバーなのです。
不要な人財はいない
様々な経験を持つ社員と縁があり、この会社で一緒に働いているのですが、痛切に感じるのは、誰一人として不要な人財はいないということです。
どんなに優秀な科学者も、経験豊富な経営者でもこのCNTを世の中に実装させた経験がある人はいません。私は科学者としての経験や知識には自信を持っていますが、経営や人事、PRについてはそうではありません。目標を実現していくためには、より多くの様々な人財が必要なのです。
▲祖母からいただいた幸運の最強御守り
やりがいを実感できる環境
研究室の片隅でいくら素晴らしい発見をしても、それが日の目を浴びなければ科学者が役割を果たしているとは言えないのが現実です。研究開発と事業運営の世界には価値観の違いがあると思います。
既存のシステムの中ではやりづらいと感じる人の中にも素晴らしい人財がたくさんいることを私は経験上よく理解しています。そんな人でもカーボンフライではやりがいを見出せるような環境作りを心がけています。
夢の実現に向けての道のりは楽しいだけの楽なものではありません。
この世にないものを産み出した人には賞賛の目が向けられますが、
それは誰にでもできることではありません。大変だと感じることももちろんあります。
しかし私の脳裏には明確に成功しているシーンが見えています。
そしてそれは様々な人たちがいなければ実現することはできません。
ガレージでパソコンを作っていた小さかったあの頃…
SF映画のワンシーンを実現しようと夢見たあの頃…
この時代、私たちの想像を超える圧倒的なスピードで夢を実現することができます。
カーボンナノチューブの社会実装を信じ一緒に「大人の夢」を本気で実現したい人を私は求めています。