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ある時期は深く、ある時期は浅く(前期)

“コンピュータやらプログラミングやらに、ある時期は深く、そして、ある時期は浅く関わりながら40年弱を過ごしてきた技術屋です" と紹介文で書いてますが、40年弱を前期・中期・後期と分けると、前期と後期が深く関わってきた時期になります。

前期は社会に出るまでの約10年間で、IT史的には Windows 95 以前と言えばわかりやすいでしょうか。個人的には、暇な時間だけはたくさんあった学生の趣味の時代です。

後期には、職業としてコンピュータやプログラミングに関わるようになるのですが、これは本当に、前期に培った遺産で食べさせてもらっているようなものだと思っています。

Encounter

生まれて初めてコンピュータに触れたのは、中学生の時、町の電気屋さんの店頭でした。町の電気屋さんはナショナルショップだったので、機種は松下電器謹製の JR-100。高級言語の BASIC を搭載していて、RAM は 16KBだったらしいです。RFコンバータで普通の家庭用小型テレビに画面が表示されてました。

そのころ、電波新聞社が刊行していたラジオの製作という雑誌にベーシックマガジンという雑誌が別冊として刊行されていて、なんとなく町の本屋さんで立ち読みするようになってました。ベーマガには読者投稿のプログラムソースが掲載されていて、今でいうオープンソースですな。立ち読みしているうちに、門前の小僧のごとく、なんとなくプログラミングについて理解できるようになり、お小遣いで購入しては机上プログラムしてみたり、電気屋の店頭で打ち込んで試してみたり。

そのうち、ベーマガに載っていた16進数の羅列に興味を持ちだす。マシン語というらしい。BASIC は立ち読みでも何となく理解できていたが、さすがにマシン語は・・・。そんな時に出会ったのが、「PC-8001,8801マシン語入門 : マシン語の基礎からゲームの製作まで」という本。昔は、こんなマニアックな本が人口数万人の町の本屋に売っていたのだなぁ。この本を擦り切れるまで読み、中学を卒業するころには、コンピュータも持ってないのに Z80 のハンドアセンブルができるようになってました。

Evolve

高校に入って、親にコンピュータを買ってもらいました。

SHARP 謹製の初代 X1。本体カラーは、当然、ワインレッド。RAM 64KB Free のクリーン設計なんだけど、数分かけて Hu-Basic の処理系を読み込むと、残りは 23536 Byte Free。だが、当時、一般的にはバンク切り替えでアクセスされていたグラフィックRAM(640 x 200 x 8色)を、Z80 で 16ビットに拡張された I/Oアドレス空間にマッピングしていたり、逆に IPL はバンク切り替えながら Read は IPL ROM から読んで Write はRAMへ書き込むという凝った設計。ハードディスクはもちろんフロッピーディスクも無くて、でも、オーディオテープを使うテープデバイスは当時最速の2700bps。しかも、専用モニタにはテレビチューナーがついてて、テレビ放送をコンピュータの画面と合成できるという。

コンピュータ本体のほうは時代とともに陳腐化してしまって使わなくなっていったのに対し、テレビのほうは、社会人になっても使えていたので、これは、これで正解だったかも。

当然、購読する雑誌も日本ソフトバンクが(Yahoo! に出会う前に)刊行していた Oh! MZ(からの Oh! X) ということに。このころの Oh! MZ / Oh! X は、故祝一平氏をはじめとする執筆陣、EDASM という Z80 アセンブラから始まった S-OS など、とにかく熱かった。当時のホビーユースのプログラム言語はアセンブラやBASICがメインだったけど、FORTH, LISP, LOGO などの他の言語の紹介もあったりして、広い世界を覗かせてくれるという雑誌本来の役目から考えると、これは本当に素晴らしい雑誌でした。

この時期、愛機 X1 とは長い時間を過ごしました。アセンブラごりごりでプログラム作ったり、ゲームで麻雀覚えたり、市販ゲームをハッキングしたり、楽しみながら学びを得られた時期でした。

Stable

大学に入ると、バイトでプログラムを書くようになりました。

とあるバイト先では市販CAD プログラムの GUI を改修したり、また別のバイト先で UNIX 教育システムの vi エミュレータを開発したりしてました。

PC-9800シリーズのパソコンを使い、MIFES でソースコード書いて Microsoft C Compiler (Visual でも ++ でもないやつ)でコンパイル、という流れの仕事が多かったのですが、まだハードディスクは無くて、フロッピーディスクから OS 起動して、メインメモリ上にRAMディスク作って、そこにコンパイル環境をコピーして、きりのいいところでソースコードをフロッピーに保存しながら開発、というパターン。フロッピーに保存しないままプログラムを暴走させてRAMディスクごと作業がおじゃんになるのが "あるある" の時代でした。

その他、マイクロウェアジャパンと関係があったバイト先では 68000 CPU のワークステーション(こっちはハードディスクがあって快適)で OS-9 を使ったりもしていて、ローランドの XY Plotter の制御コマンドを解釈してレーザプリンタへ印字するドライバを作ったり、(これはバイトではないですが)CP/M 環境で3Dコンピュータグラフィック製作環境を開発するプロジェクトに参加したりしてました。

大学では、教養課程の頃に週に一コマの計算機実習があり、大学の電子計算機センターで NEC の ACOSTSS で使い FORTRAN, COBOL, PASCAL なんかで遊びながら単位をもらったなぁ。まだインターネットはなかったけど、研究室にあった Sun Microsystems のワークステーションは、日本におけるインターネットの前身 JUNET に接続されていて、あまり使ってなかったけど電子メールも運用されてました。

バイト先がつぶれたころから、コンピュータやプログラミングとはだんだんと疎遠になっていき、もちろん、卒論や修論をTeXで書いたりするのに使ってはいたけど、なぜか、日本橋にある関西資本の家電量販店で店頭に立ってパソコンやソフトを売るバイトをしてたりもして、そうこうしているうちに社会人となり、コンピュータやプログラミングとは関わりの浅い中期に入っていきます。

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