正しさを求めるということ
突然だが、私は「正しい」ということが好きだ。
「正しい」という言葉にはとても堅苦しいイメージがあるが、私の求める正しさはそれとは少し違っている。ふざけているものでも正しいことはあるし、厳粛なものが正しくないことだってある。
では私にとっての正しさとは何かというと、英語で言うところのbetter thanである。カジュアルなものやエンターテインメントが求められているところでより「正しい」のはより親しみやすいもの・面白いものであるし、逆に伝統的でフォーマルな場では様式に則り失礼のないものが「正しい」。
しかし人は、悪意があったり失敗をしたりしなくとも、しばしば「正しく」ない振る舞いをしてしまう。あなたも身に覚えがあるだろうし、私だってもちろんそうだ。それはどうしてだろうか?
これには理由が2つあると思っている。まず一点目は、個々人の価値観の問題だ。そもそも個人として、常に「正しさ」を追求していないのが問題である。しかしながらこの社会において、正しさの追求は必ずしも必要ではない。最低限、法律に触れない程度の分別があれば生きてはいけるし、まるで哲学者のような人生を送ることが幸せへの近道とは思えない。
もう一点は、環境の問題だ。皆がよりよくしようとしても、見にくいだとか、動きにくいだとか、そういう理由で外部から「正しくない振る舞い」が自然なものとなっていることである。芝生に入って欲しくなくても、散歩道として通りやすい位置に芝生があればそれは踏み荒らされる。奥に詰めれば皆が余裕を持って乗れるのに、入り口に固まってしまう満員電車。そこに悪意はないが、正しくはないのだ。
私は、この世に正しい振る舞いをする人間が増えてほしいと思っている。けれど、人類すべてを前者のような正しさを追求する意識の高い人間に啓蒙しようとは思わないし、それは現実的ではない。私自身はそうありたいと思うし、デザインをする上で常々考えていることであるし、私の人生の目的のひとつだが、それを他者に要求すべきでないことはよくわかっている。
しかし、私の生き方によって、環境は少しでも変えられる。この世界において、私が関わることのできるプロダクトはほんの僅かかもしれない。だがゼロではない。少しでも、人々が自然と正しい振る舞いをできる環境を作り出すことができれば、それは私にとってとても価値が有ることだし、社会にとっても価値のあることだと思う。
私には何ができて、何をすべきで、何をしていきたいのか。きっとそれは、正しさという目に見えないけれど大切な基準を、常にこの具体的な現実の中で考え続け、そしてこの世の中に形として残していくということだと思っている。