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インディバル→ツナググループHD(統合) / 一般社員
神戸生まれ。「東京に引っ越してきてから」が、人生のちょうど半分になりました。 「面白そう」と思ったら、やったことがないことでもあまり躊躇しないタイプです。仕事は、前に出るよりも助監督的な立ち位置で縁の下の力持ちになりたいタイプだと思います。 これまでの職歴を振り返ると、コトとコトの間に「橋をかける」ことをやってきたなと思っています。
(1)自社サービスを磨きあげる世界線へ 受託制作の面白さも実感できたからこそ、改めて自分の仕事の原点は「自社サービスを育てる」ことのやりがいにあると感じています。そこに、ライターとしての言葉のチカラとWebデザイナーとしてサービスを実装してきた経験で関与できればと思っています。
自分から異動願いを出して、ライターとしての勤務が叶いました。 Webデザイナーの頃から、「サービスごとに担当デザイナーが分かれることで、UI上の文言にバラつきが生じる」ことに課題を感じており、言葉を用いる仕事に就きたいと考えるようになっていました。新サービス立ち上げに際して様々な取り組みを行い、現在は顧客の求人募集のためのコンテンツ制作を主に担当しています。
「一人親方」状態が長かったですが、2023年から複数人のライターチームに。チーム内で把握しておくべき情報が散逸していたため、ポータルをNotionを使って立ち上げました。inbox的DBを中心に置いて、全社用件・職域で必要なこと・日々の業務に役立つナレッジなど、粒度によって情報を整理しています。(※プロジェクト管理は別ツールで運用継続のためNotionでは行わず)
自社サービス「Findin」のユーザー向けヘルプページをzendeskで実装する立ち上げを行いました。(その後の運用は別チームへひきつぎ) また、社内向けにサービスの仕様をまとめるWiki制作にも携わりました。
・Webデザイナーとして在籍中に経験した、自社サービスのためのユーザー分析からペルソナ策定までを、顧客のために実施したこともありました。 ・また、顧客の競合サイトやSNS施策、動画への取り組みなどを分析し、顧客へレポーティングしたことも。 ・コンサルと協業し、大規模提案の資料作成を担当した際には、コンサルやエンジニアが用いる専門表現を分かりやすく図示し、平易な表現に変換することで、コンペ主催者から高評価を得たこともあります。 これらの「視覚的にも内容的にも分かりやすい資料作成」は、Webデザイナーとしての経験と、ライターとしての経験の両方を活かせる業務だと感じており、得意とするところです。
「Webデザイナー」として初めて採用されました。 Yahoo!とリクルートのJVとして起業したばかりのインディバルに、派遣社員として入社しました。 当初は未整備な事柄が多く、Webデザイナーとしての業務とともに、申込書の作成など様々な業務を担当していました。サービス
Yahoo!の子会社である待遇を存分に活かして、Yahoo!の持つQA環境(=アイトラッキングシステムなど)を使用した、ユーザーテストやユーザーインタビューを実施。 姉妹サービスの立ち上げ時には、属性分析・価値マップ・カスタマージャーニーマップ・ペルソナなどを作成し、チーム全体で施策を考える時の「共通認識」を定義しました。
ウォッチされる各種指標をもとに、チームで施策を検討し、要件定義を行っていました。ユーザーファーストを志向したUI・UX設計(求人に応募するユーザー側と、募集を出す企業が使う管理画面の両方を担当)。 phpやAWSを扱う統合開発環境で、エンジニアと協業しながらデザインの実装を担当しました。
今では珍しくなくなった、短期・単発専門の求人メディア(=ショットワークス)を運営するにあたり、会社が掲げていたのが「ユーザーファースト」でした。費用を支払ってくださるのは募集企業ですが、「働いてくれる人がいなければ事業は成立しない」という考えから、ユーザーファーストが浸透していました。Webデザイナーとして要件定義に携わる際にも、この視点を求められました。
自社サービスのブラッシュアップと共に、流入獲得のためにYahoo!のTOPページからリンクを貰える特集企画を考え、取材・制作を行っていた時期がありました。 Yahoo!のチームのチェックは厳しく、何度も手直しを行うことも。 ディレクター含めて3人のチームで、硬軟おりまぜた企画をとにかく量産していました。
この頃から、「Webデザイナーになる」ことを意識しました。 ダイレクトマーケティング研究所は、神戸にあった企業の採用コンサルを行う会社で、その東京オフィスで勤務することとなり、採用・即転勤。 応募した職種は企画職でしたが、一部制作にも関われることを条件に含めていただ
ひとつ前の仕事で、「誰かの困りごとを解決してお役に立つこと」が自分にとってのやりがいになり得るんだ!と実感できたので、同じテクニカルサポートの仕事を探していました。
ベンチャー企業ではやるべきことが山積しているので「誰かがそれをやる」ことを求められました。顧客向けの申込書や利用規約のドラフトを作成、CTI構築のために業務フローを洗い出して要件定義を行い、実装内容を検収。顧客対応マニュアルを作成(※すべての業務を日英語で提出する必要があり、通訳と密に連携)…など、サービスやコールセンターをゼロから立ち上げることに現場担当者としてフルコミットしていました。 楽ではなかったですが、非連続的に成長できることを実感できた機会でした。
テクニカルサポートの業務として、ネット接続について適切に顧客に説明する必要があったため、2進法にはじまり、IPアドレスの仕組みやプロトコルの働き、名前解決などに関するネットワークの基礎を叩き込まれました。(この時の理解度が、のちにWebデザイナーになる際に活きたと感じています) また、コールセンター立ち上げ時期だったため、データベースすら知らない未経験者のくせに「コンサルティング会社との協業で設計・導入するCTIのPjct」に現場の人間として参加し、最後は検収まで担当しました。
上司が全員アメリカ人だったため、拙い英語でコミュニケーションを取っていました。(※重要な会議には通訳が同席) 本国からプロジェクト単位で送り込まれてくるCiscoの通信技術者や、各業務の専門家スタッフ・責任者と仲良くなり、京都や奈良の観光に行ったりもしました。
自分がMacユーザーだったため、その知識を活かせる「Macに携われる仕事」を、前職の派遣会社に依頼し紹介された業務です。 当時、アップルコンピューター社の修理を委託されていた日本ソルテック株式会社の、「ソルテック・マッキントッシュ・サポートセンター」で、エンドユーザーから電話で寄せられる故障の問い合わせに対応する、テクニカルサポートを行っていました。
当時は初代iMac(ボンダイブルー)が出たばかりで、「生まれて初めて触るパソコンがMac」というお客様が激増した時期でした。突然不具合が発生したことで戸惑っておられるお客様に、落ち着いて改善手順をひとつひとつお試しいただけるようなご説明を心がけました。 運良く不具合が解消されたお客様が、大切なデータを失わずに済んだ時の「ありがとう」ほど、やりがいを感じるお言葉はありませんでした。
入電の受話器からいきなり怒号が飛んでくることもしばしばありました。そんな風に誰かに罵声を浴びせられることは日常生活ではありえないため、最初は震えて声も出ませんでした。だんだんと慣れて「怒っている=お客様は困っておられるのだ」と思えるようになってからは、落ち着いて対応できるようになりました。 修理でお預かりする際には、免責事項(HD消失の可能性)への同意が必要なのですが、その説得も、なるべくお客様の心に寄り添うことを心がけました。
同じ学部の友達に誘われ、大学在学中のアルバイトとして入社しました。 神戸市の外郭団体である神戸市開発管理事業団(こうべケーブルビジョン)で、アシスタントディレクター業務を行っていました。
ケーブルテレビというメディアの特性上、「地域に根差した身近なニュース」を日常的に取材していました。保育園・幼稚園・学校や公的機関、商業施設のイベントなどを、必要最小限のクルー数で取材していました。 カメラマンがどう撮影するつもりなのか、ディレクターがどんな絵がほしいのか、言葉で説明されずとも理解できるようになり、ライティング(照明どり)や段取りが向上することにやりがいを感じていました。
神戸市の外郭団体でもあるため、市からの依頼を受けて、公的行事や記者会見・震災復興の定点観測などの記録を行っていました。 在阪テレビ局の報道クルーに混じって取材を行うこともあったので、(自分は普段そんな業務を行っていないのに)報道の現場を垣間見ることができ、身が引き締まる思いでした。 「技術的に劣っていると思われたくない」という、外からの眼差しを認識できたことで、普段の業務の習熟を意識する良いきっかけになっていました。
浅野 理絵さん
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