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Webという脆さ、その先へ。3.11に思う。

どうも。
野村です。

今日は2019年3月11日。
東日本大震災から8年が過ぎました。
大きな人的、物的な被害を引き起こしました。

2018年(平成30年)9月10日時点で、者は1万5,896人、重軽傷者は6,157人、警察に届出があった行方不明者は2,536人であると発表している

参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C

そして今もなお、52,000人もの方々が避難生活を送っています。


避難なお5万2千人=東日本大震災、11日で8年
2019年03月10日17時55分

参照:https://www.jiji.com/jc/article?k=2019031000324&g=eqa

2011.03.11 14:46

あの日は金曜日。
私は所用でクルマで外出しており、ちょうど自宅の駐車場につく直前でした。
札幌市内でも地盤が弱い地域なため、安全に走ることが出来ないほどの揺れが1分以上続いたのではないでしょうか。

東京に住んでいた頃、2004年中越地震の際に、S波による「ゆっくりと大きな揺れ、ああ、遠くで大きな地震だな」ということを体感したのですが、その比ではない。
直感で「これはとんでもない地震だ」とわかりました。

呆然としながらも駐車し、しばらくカーラジオをつけていました。

「仙台で震度7」
「大津波警報は岩手、宮城、福島」
などなど。

東京に親と妹を残しており、連絡も全く取れない。
岩手県の大船渡に仲が悪いとは言え親戚がいる。
文字通り血の気が引き、緊張が止まらない。
非常に不安でした。
(原発問題は今やイデオロギー的なものになっているので言及しません)

クルマから降り、隣家のおばさんが「野村さんの実家、東京よね?大丈夫なの?」と聞いてきました。
「いや、連絡が全くつかないし、大船渡に親戚がいる」と答えるのに精一杯でした。

先にも言った通り、その日は金曜日。
実はその次の週の月曜日から1ヶ月常駐の案件が始まるところでした。
本社や営業は東京、札幌で制作という会社です。
とりあえず先方に連絡したところ「どうなるかわかりませんが、月曜日から来てください」とのこと。

家に帰り、TVから流れる情報や情景。
果たして仕事はできるのか?という思いに駆られました。

月曜日から常駐したのですが、たしか木曜日くらいまでは「それ以前に残されていた案件」や「震災に関しての営業情報」などの更新に留まっていた気がします。

そして「電力問題」がありました。
Webを使うには電力を必要とします。
例え被害が大きかった地域に情報を送ろうとしても届かないのです。
またWebは通信網も必要です。
つまり、電力と通信のどちらかがダウンしたらWebは使えないのです。

ああ、Webというものは如何に脆弱か、と思い知らされました。

2018.09.06 03:07

そして2018年9月6日未明。
北海道胆振東部地震が起きました。

私はちょうどその時もクルマに乗っていたのですが、ガツンと突き上げるP波。
地震の多い東京に長く住んでいながら、あれだけの激しい揺れは始めてでした。
そして突然の停電、ブラックアウト。
国道36号を含め、札幌市内の信号はほぼ全滅。
街頭も消えたため頼りになるのは他車のライトのみ。

家に帰り着くと、自分の部屋から窓ガラスが落ちていました。

部屋の中も冷蔵庫が倒れ、洗濯機は揺れで内壁に大きな穴を作っていました。

地震の規模や津波の有無が違うとは言え、まさか自分が経験するとは思っても見ませんでした。
特に札幌は地震が少ないことでも有名ですから尚更です。
札幌市東区に住んでいるのですが震度6弱。
人生で最も大きな地震に遭遇したのです。

食べ物は?
水は?(幸いなことに断水はありませんでした)
ガスは?(プロパンガスなので復帰はすぐに出来ました)
非常に不安でした。

当然停電しているため、ノートPCもスマホも電池が切れればお終い。
幸いなことに通信網は途絶していない。
徹底的に省エネモードにして少ない情報を集めていました。

また私の住むアパートは私を除き高齢者だけなので、声を掛け合い
「いやぁ、これはどうにもならないね…」と話しながらタバコを吸っていました。

近所のファミマも閉まっている。
ああ、セイコマートなら確か電源設備が整っているのでは?と思い出して、買い物に。
着いたら1台のクルマからコードが店内に向かって伸びており、照明も空調もない、薄暗く蒸し暑い店内で店員さんが「オフラインでも対応できるPOP」を使って会計をこなしていました。

食べ物や飲料水、酒やタバコを買って帰る道すがらに撮った写真がTOPのものです。
青く明るく高い空。
「やっぱりWebって脆いんだな」と痛感しながら撮りました。

これだけWebに浸ってしまうと、することがないんですよね。
動いて何が変わるでもなし、焦っても仕方ない。
停電の復帰の見込みもわからない。
ならば酒でも飲んで寝てしまおう。

本当に幸いなことに当日の夕方に電気が戻り、実家に連絡をし、Webを使うことができました。
そうすると電気が戻ったのが我が家を含むほんの僅かで、通りを挟んだ向かいは未だ停電中だったり、そして何よりも驚いたのが「道内ほぼ全てがが停電している」ということでした。

北見に叔父と祖母が住んでいるので電話したところ
「揺れはそんなになかったけど、全然電気通ってないんだわ。信号も全滅だし仕事になんねえ」
とのこと。

信じられますか?
札幌から北見までおおよそ300kmあります。
東京から西に300km進めば、愛知県豊橋市に着くくらい遠いのです。
それ以上の地域が停電している。
Webを使うこともままならない。

さらに言うとWebのみならず、これが真冬に起きていたら…
ストーブが使えなくなりますので数多くの凍死者がでていたことでしょう。

2019.03.11 13:05

今はWeb、いやTCP/IPが生活インフラの多くの部分を担っています。
我が家はラジオは入りにくいのでRadikoを使って聞いています。
TVはフレッツTVなのでTCP/IPは使っていませんが、仮に自宅が通電していても送出設備がダメなら映りません。

Webとともに暮らし、Webでメシを食ってきた人間にとって、Webがない生活は考えられません。
Web利用者の初めての爆発的増加は1996年〜2000年にかけてでしょう。
もう20年以上も前になります。
その時生まれた赤ん坊は、ほぼ成人式を終えており、社会にも出ています。
彼ら彼女らは「Webがない時代」を知りません。

もしTCP/IPが遮断された場合、我々作り手はどうするべきなのでしょうか。
どうあるべきなのでしょうか。

インフラ整備の強靭化、冗長化もあるかもしれません。
しかしそれらは莫大な資金と人材が必要になり、中小企業は太刀打ちできません。

違うプロトコルを使うべきなのか、それともオフラインでもある程度情報を発信できる仕組みを整えるべきなのか。

Webはまだまだ未成熟です。
Webのその先は、そういうところにあるのかもしれません。

さて、あと2時間弱で「あの瞬間」から8年になります。
今一度、Web業界全体や携わる人として何ができるのか、しっかり向き合うことが大事だと思ってやみません。
そして、Webがもっと人にやさしく寄り添っていける存在なるように導いていかねばなりません。

改めて、東日本大震災で被害に遭われた方に祈りを捧げます。
これからの世界がもっと穏やかでありますように。

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