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新田博衞記念館 設立趣旨

「美学」という学問があります。何かを「善い・美しい」と感じることの意義や価値について考察する哲学の一領域ですが、わたしは新田博衞先生を通じてこの学問に出会いました。新田先生の遺された蔵書のジャンルは実に多岐にわたり、この学問の射程がいかに広範囲であるかを教えてくれます。

新田先生は「美学」の目指すところについて、「ただ生きるのではなく、善く生きる」ことという言葉を引用されました。「善く生きることと、美しく生きることと、正しく生きることは同じ」とプラトンは『クリトン』に書いています。何かを「善い・美しい」と判断することは必然的に道徳的なものに結びつきます。「善く生きる」ためには何かを「善い・美しい」と感じることについて深く考えることが不可欠なのです。

今日、わたしたちがどのように生きていくかを「善い・美しい」を基準に選択していくことはなかなか難しいように思われます。「善い・美しい」というのは普遍的な視点を含んでいます。それは個人的な「快楽」や「満足」とは異なりますし、物に備わった「利便性」とか「有益性」といった性質とも異なりそうです。

例えば、自分のことばかり考えて他人のことを顧みない生き方は「快楽」の追求と言えそうですが「美しい」生き方とは思えません。また、環境を破壊してしまった近現代の科学技術史を考えれば、「利便性」の追求が必ずしも「善い」とは言えないでしょう。

それらが本当の意味で「善い・美しい」ものになり得ず、どこか的外れで何かが欠けていると感じるのはどうしてでしょうか?それは、長期的で他者や外的環境との多様な関係性を包摂する視点に欠けているからではないかと思います。

自分のことだけでなく、家族、地域、国、人間社会、生態系や気候、環境、地球全体にまで敷衍してどれ程多くの視点から「善い」と言えるのか、あるいは、子ども達や孫の世代、未来に受け継いでいくに値する価値観なのか検討してみる必要がありそうです。正解はないかもしれませんが、日々の生活の中で考え続け更新していくことが「善く生きる」「美しく生きる」ことにつながるのではないでしょうか。また、過去から受け継いだ伝統や文化には先人達が練り上げ大切に培ってきた価値観が隠されています。それらを再発見し生活に活かしていくことも「善く生きる」「美しく生きる」ことにつながりそうです。

そうした視点で身の回りを見渡すと、私たちの生活は価値観の選択や判断に溢れていることに気がつきます。どんな服がお気に入りで、どんなブランドの道具を使い、インテリアはどんなスタイルで、どんな家に住み、どんな車に乗りたいか。正解は一つではありません。様々な価値観が交錯している社会を様々な角度から観察する。深く考えるための材料は身近なところにたくさんあります。人が作ったものには全て作り手の意図が込められていますし、職業や生い立ち、住んでいるところ、健康状態、経済状態、さまざまな要因が選択を左右します。立場の違う人の考えることは、そこに身を置いてみたことのある人でなければ、なかなか気づくことのできないものですが、詳しく聞いたり、本で読むことができれば、想像することは可能です。また、人間の社会的な営みだけでなく、自然との関わりについても改めて考え直した方がよさそうです。

「善く生きる」ために、深く考えて生きるために、どうやらわたしたちは普段から多くの人と話をし、本を読み、様々な立場の人の考えを学び「善い」判断に備える必要があるようです。そして、直ぐに思いつく安易な答えにとびつかないこと、結論を急がず、出した答えに執着せず、常に軌道修正をしていく構えが大切ではないかと思います。

このように多様なものの見方を柔軟に受け止め「善い・美しい」を見極める感性を養うことは教育や文化の役目です。つい最近まで、それらは学校や地域の世代を超えた交流の中で育まれ受け継がれてきました。

しかし、残念なことに、今日ではカリキュラムから「美学」が姿を消したり、哲学や文化に関わる科目がめっきり減ってしまったという大学も多いようです。代わりに大学のカリキュラムで増えたのはビジネスに直結した実学的な授業です。即戦力を求める企業とそれに応えようとする若者たち、そして少しでも多くの若者に来てほしい学校。その気持ちもわからなくはないですが、それらのみに偏るのは、やはり短期的な価値を優先して大事なものを見失っている気がします。欲望を原動力に組織や企業の利益を最大化する、資本主義経済という枠の中で、限定的な価値観のもとに組み立てられたカリキュラムが「善く生きる」ための学びを肩代わりすることはできないでしょう。

また、地域社会ではご近所付き合いが希薄になり家族も核家族化し、伝統文化や知恵がお年寄りや大人たちから子どもたちへ受け継がれることも少なくなってしまいました。私たちの暮らす社会は、老人ホーム、保育園、学校と同じ世代を集めすぎていないでしょうか。ケアする側とされる側がはっきり分かれすぎてはいないでしょうか。いつも世話をしなきゃと思うと疲れてきますし、世話されっぱなしだと辛くなります。しかし、ずっと一緒にいる家族や地域のつながりは、本来、支える人と支えられる人が頻繁に入れ替わるものではないでしょうか。ケアという「善い」ことを職業的他者にまとめてあけ渡すことで、わたしたちは楽をしたつもりがここでも大事なものを失っているのかもしれません。子育てや老いの問題は世代を超えたケアや気遣いの「善さ」を見つめ直すことで今とはちがった解決策が見えてくるかもしれません。

今のわたしたちの社会は明白で合理的な結論を導く論理のみに従ってすぐ役に立つものや有益なもののみを追い求めすぎていないでしょうか。難解で今すぐに答えの出ないことや、はっきりしないけれども将来の布石となりそうなこと、伝統に隠された意図を学ぶことなどを後回しにし続けているように感じます。そして、その結果「善いもの・美しいもの」を学ぶ機会はどんどん失われているのではないでしょうか。

失われつつある「善いこと・美しいこと」を価値観の軸にした交流の場を、わたしたちはもう一度取り戻したいと考えています。一人ひとりが「善い」こととは何かと考え行動する場を作ることが、将来への不安や閉塞感から脱出する第一歩につながると思います。

わたしたちは新田先生の蔵書や遺稿の閲覧、先生の論文の研究などを通じて、先人の知恵に学ぶ機会を設け、世代を超えた哲学サロンや芸術ワークショップ、絵画教室などの交流によって参加者全員で考えを深めあい、社会に文化的な働きかけをし続けられる拠点となること、「美学」を社会的に実践することを目指します。

新田博衞記念館ホームページ

https://hiroe-nitta.org/index.html