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ケニア日本人会会報Jambo2020年1月掲載巻頭言

Photo by bennett tobias on Unsplash

9月末にケニアから離れて早 3 ヶ月となり、日々ダイナミックに変わっていくケニアの時間感覚でいけば、 もうすでにそんな人もいたなーという遠い過去の存在になってるだろう私がこのような由緒ある Jambo の巻 頭言を務めさせて頂くのは誠に恐れ多いですが、せっかくの機会ですのでケニアで体験し、感じたことを卒直に書き綴ってみようと思います。

私が初めてケニアを訪れたのは 2014 年の 2 月でした。この時はまだ日本に在籍し出張という形でまだできた ばかりの二輪車の製造販売を行う現地法人を支援しておりました。約 1 年半後にまさか自ら駐在員の立場に なるとも知らずに。
当時アフリカに対して日本人の一般的な感覚しか持ち合わせていなかったので、最初はまさに異次元に行く感じでしたが、行って第一印象が、「なーんだ、普通じゃん」です。「普通」の解釈はいっぱいあります が、ここでの意味は普通の人間的感覚で日々の生活が営まれており、日本と比べて物質的豊かさの違いはあ れ喜怒哀楽の本質、価値観は普遍で何も変わらないというものです。むしろ自分に正直に生きていて羨まし いなとさえ思いました。それはピラミッドのボトムの方に行っても変わらず、例えば西部 Kisumu の少し北 Luanda という町のボダボダ(バイクタクシー)ライダーの自宅に訪問した際に、家があり、家族があり、お客 様が来ればきちんともてなしてくれる、全員が携帯を持ちいつでも連絡が付き、バイクを家宝のように大事 にし、ラジオがあり家畜がいて野菜も育てている。日本から 1 万 1 千キロの距離を隔て途中海があり山があ っても、やっていることは同じ、何か当たり前のようでいてすごいことだなと。これも私たちが「人間」と いう単一種である以上普通のことでありますが、ある意味ケニアで受けた最大の衝撃でした。
結局これをきっかけに、特別扱いせずに同じ目線で問題を考えるようになりましたし、素直に卒直に自分の 気持ちを吐き出せたことがより一層ケニアに対して興味を持つことになりました。大袈裟かもしれませんが 自分の中の日本+αしかなかった小さな世界観を 1 万倍くらい広げてくれた体験でした。

同じ年の 9 月に訪れた 4 回目の出張で、熱帯熱マラリアと卵形マラリアに一度に二度美味しいではないです が、両方に罹患し生死を彷徨った時がありました。その時も病院に行って血液検査、薬をもらって 3 日間絶 対安静、ホテルで寝ていた時も好意でそこのスタッフがフルーツを部屋に持って来てくれる、といった日本 でいえばインフルエンザに罹ったような感覚で物事が進んでいく感じに、やはり普通さを感じました。そこ に住んでいる人にとってマラリアはまさに風邪に罹る感覚と同じであり、何も特別なことではありません。

一般的な日本人が持つ恐怖とか哀れみといった感情はアフリカを上から見ているからだと自分は考えていて、まずはそこに住んでいる人の行動、感情のありのままを受け入れることが大事なんだと感じました。もちろん後天的な要素、教育の質や物質の豊かさなどは生まれた環境、場所で全然ちがいます。日本国内ですらそれが問題になるくらいですから、国が違えば尚更、教育や文化レベルの違いを押し付けるのではなく、世界にはいろいろな知識が溢れていて、考え方はいっぱいあるんだよと。たまたま運良く多く持っている知見を同じ目線で共有するというスタンスでいかないと、いつまでも特別扱い感は抜けないと考えます。誰でも自分が好んでその国に生まれてきたわけではありませんので。

そんなことを考えながら、仕事でも個人の興味としてもどんどんケニアにのめり込んでいきましたが、このマラリア罹患がきっかけで 1 年間海外出張を自粛することになってしまいました。そのうちに日本での何と も言えない悶々とした感じ、日々の暮らしを坦々とこなしてる感じだったり、他人に干渉しないドライな感 じ、世間の目を気にして何もできない窮屈な感じなどですが、ケニアに関わるようになってからそれが特に 気になり始め、ついに満を持して当時のアフリカの責任者に直談判をし、運とタイミングも相まってケニア 駐在の道を開きました。

実際 4 年の任期後日本に帰ってから 3 ヶ月経過しましたが、やはり駐在に出る 4 年前と同じような感覚、むしろより一層色濃く感じて過ごしています。日本はなぜこんなに物質的に豊かなのにどこか悲壮感が漂って るのだろう、何か根幹の本能的な喜怒哀楽表現に飢えてるような気もします。決められたレールがあり、それをきちんとトレースするのが目的かの如くみんなが同じ道を淡々と歩いている。
「人に決められた道ではなく自分が生きるため楽しむ為の道を素直に生きるべきなのでは? 」それは 2015 年 10 月に駐在として再びケニアの地を踏み間もない時に訪れた、Eldred の北東マラソンで有名 な Iten から更に北リフトバレーを降ったところにある Tot という小さな町で感じました。

行くまでの道のり は世界一の悪路だと断言できます。まさに未舗装の崖を車で越えるのですが、道は車1台分片方は壁片方は 何もない、少しでも車輪を踏み外そうものなら 1,000m の断崖真っ逆さま。ただ絶句してドライバーに命を預 けるしかありませんでした。南はマサイマラ近くのタンザニア国境の Lolgorien という町や、北はエチオピア 国境の Moyale という町、西は南スーダンに近い Lokichogio などほぼケニア全域を回りましたが、あれを超える道は未だにありません。
当然そのような崖の先に私たちのバイクディーラーはないのですが、しかしバイクを買ってくれたお客様が いる、しかも 50 人以上もと聞き、お客様がいる以上アフターサービスを届ける必要があるという責任感だけ で衝動的に足を運んでいました。そこにもやはり普通の暮らしがありました。日本人の感覚では電気もまと もに来ていない、医療も物流も貧しい、どうやって生活するんだという疑問しか浮かびませんが、悲壮感な どなく会う人みんなが幸せそうなのです。1 日 500ksh の稼ぎしかない人にとって1台 10 万 Ksh もするバイ クは超高級品です。しかし生活のパイプラインに無くてはならないもの、私が行くと、待ってましたとばか りに人だかりができて、早くオイルをブレーキシューを売ってくれとせがまれます。バイクを買いにわざわ ざ崖を越えて行き、そこまでして欲しい理由を聞くと壊れないバイクが欲しいからと。日本の技術はこのよ うな人に使って貰うためにあるのだなと実感しました。「エンタメやモノで溢れているが惰性で働いて何を 目標に生きるか答えを探し彷徨っている多くの日本人」と「生きるために必死に働いてその中の小さな出来事に一喜一憂するケニアの田舎町の人々」、彼らのペースで生きて彼ら自身の幸せを感じている、あ、これが今の日本に足りないものだなと感じました。

そこから 4 年間、今思えばその Tot での経験があったおかげで、お客様がいる限りどんなに小さい町でも足 を運ぶようにし、恐らくケニアに駐在されてる日本人の中でもトップを争えるくらい訪問した町の数は多い と自負しています。

ケニア人を使うという立場で仕事をしていると、なかなか一筋縄でいかないところもあるのはよくご存じのことと思います。この4年間接してきて思うのは、彼らはたまたま教育の機会に恵まれなかっただけで、教えればただ純粋に黙々と作業をしますし、理解しようと努力もします(忘れやすい、すぐ集中力が切れるという問題がありますが、、、)。インド系マネージメントの超トップダウンのやり方が身に沁みついている彼らに必要なのは、ベンチャー社長のようにフラットな組織で同じ目線で話ができ、強烈なリーダーシップで引っ張っていってくれる人だろうなと感じます。そうすることでケニア人のマネージメント層がより厚く育っていくのではとも思います。ビジネス全般的に日本人的な時間や目標で無理やり押し込むのではなく、彼らのペースで地道にやらないと真の現地自立化にはならないのだろうなと思うこの頃です(私自身も実際駐在中にそれができていたかは疑問ですが)。

最後に、途中縁があって日本人会幹事も 1 年務めさせて頂きましたが、そこでの経験、出会った多くの日本 人の方々との繋がりは一生の財産となりました。ケニアの人々に純粋な人が多いので、自然とそこに住む外 国人(日本人含)も純粋に自分の気持ちの赴くままに楽しそうに過ごしている方々も多い気がします。住んでい ると同僚の横領や窃盗などの犯罪に巻き込まれ人を信じれなくなることもあります(私もその一人です)が、そ れはどこの国でも同じと割り切りまずは信じて同じ目線で会話をすることをこれからも心掛けていこうと思 います。

今日本では、アフリカとは全く違う地域の業務をしています。自分の感性や想いを大事にし、自分に限界を設ることなく、公私含めこれからもできるだけ多くの国へ出向き、自分の世界・可能性を広げていこうと、そして私の世界を広げてくれたケニアに恩返しをするべくこれからも接点を持ち続けて関わり続けていきたいと強く感じます。

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