「経済は文化のしもべ」
この言葉はベネッセ時代にお世話になった福武総一郎氏の言葉です。福武さんは非常にビジョナリーな方で、独特の表現を用いてコミュニケーションされることも多く、意図されたことをすぐに理解できないこともありましたが、その中でもとくに理解しきれずにいたメッセージが「経済は文化のしもべ」でした。福武さんは非常にアートに造詣が深い方でご自身で美術館をつくられたり様々な芸術活動に積極的でいらっしゃいましたので、ビジネスよりアートのほうを尊重していらっしゃるのかな・・など、当時は非常に失礼な解釈をしてしまったこともあります。
ただ今さらながら福武さんがその言葉に込められていた意味についてイメージをもつことができるようになってきた気がしています。私なりの解釈では「目先の損得、経済合理性ばかりにとらわれてはいけない、一人一人が理念やビジョンといった大義に重きを置き、考え、行動するカルチャーや組織風土を醸成すべき」との想いを込められていたのではないかと思います。そして福武さんは、まさに範を示すべくこのことをベネッセの経営において実践されていらっしゃいました。すぐに思い出されるのはベネッセにおける介護事業への取組みです。
ベネッセの経営理念は世の中の人の「よく生きる」を支援するであり、その想いを社名に冠しています(Beneeseはラテン語でよく生きるを表す造語)。福武さんは「福武書店」から「ベネッセコーポレーション」へ社名変更され経営理念を体現する意思を社内外に明確に示されました。そして具体的なアクションの1つとして社会問題化しつつあった高齢者の問題に正面から取り組むべく介護事業への参入を決断されています。当時、ベネッセには介護に関するリソースは何一つないなか、まさにゼロからの立ち上げでした。当然にすぐに軌道に乗るはずもなく、関係者は非常に苦労されていましたし、およそ10年は赤字であったと記憶しています。経営者としては社内外のステークホルダーから厳しい声を幾度となく投げかけられていらしたにもかかわらず、決して揺らぐことなく粘り強く事業を推進していらっしゃいました。そしてまさに苦節10年、黒字化を果たし、今では何と基幹事業である教育と肩を並べる、まさにベネッセの屋台骨を支える事業へと育て上げられたのでした。
翻って私自身に立ち返ると、会社の中でマネジメント的立ち位置で仕事をしているうちに、つい事業計画や売上、利益などの数字に捉われた仕事をしてしまっている自分に気づきます。確かにマネジメントにとって数字は大切であり、その影響力は大きいのですが、人事として感じるのは、数字目的での改善やアクションは短期的には目に見えた成果となって現れますが、長い目で見ると実は継続できていないことが多々あるということです。これは当事者のマインドセットの問題が大きいのだと思います。数字を大切にしつつ常にその目的や理念に立ち返るなど上位概念を強く意識できていると、その場しのぎの対応とならず行動を継続することができますし、加えてもし環境変化が起こったとしても自ら上位概念のWyhやWhatに立ち返り、その時々で最適な判断や柔軟な対応ができます。もし数字だけを念頭にアクションすれば、場当たり的となりがちで、本来的なことを深く考えず、ただただHow toに没入、その一瞬をとらえれば正しくとも中長期的には徐々に本質から外れてしまうことでしょう。福武さんのお言葉をアレンジさせていただくと、まさにこれは「文化が経済のしもべ」と化しているということかと。
人事という立場では身につまされる思いをしてきたのが成果主義です。成果主義は当然に必要な視点であり、否定するつもりは一切ありませんが、ただそれにあまりウェイトを置きすぎると「文化が経済のしもべ」となり、長い目で見て組織が成長できない、徐々にダメージを被ってしまう等の問題を招きかねないと何度も痛感させられました。ですから成果主義をプロモートする場合は、社員やマネジメントの声についてはたとえ些細なことであってもその警鐘ととらえるべきと常に肝に銘じています。
ただ頭では理解できていてもそれを実践するには相当の覚悟や努力が必要に違いありません。福武さんはどんな時でも大義的なものが自然と言葉として出てくる方でした。卑近な例で恐縮ですが、実は私がベネッセ退職を申し出た時、ありがたいことに「ワシのそばにおれ」と言っていただけました。福武さんからそのような言葉をかけて頂けるとは思いもよらなかったため相当に迷い何度も逡巡したのですが、それでも人事のプロを目指すという目標に向かって一歩踏み出するべきとの決断に至り、退職願いをあらためてお伝えしました。その際、いただけたメッセージが「わかった、お前の”よく生きる”を大事にしなさい」でした。何とも有り難くかけがえのないメッセージで、私の生涯の宝物であることはもちろんですが、一方でどれほど考え尽くし、想い尽くせば、福武さんのように経営理念が自然と言葉になって出てくるのだろう、とついつい考え込んでしまうのでした。
福武さんは創業者の福武哲彦氏から経営のバトンを引き継がれましたが、その際には私たちでは想像もできないくらいの覚悟をもって会社を引き継がれたのではないかと推察します。その覚悟が心に刻み込まれ、自らが掲げた目標の達成に向けひたすら尽力され続ける過程で、ものごとの本質を深く考え、自らの人生にも活かされ、だからこそ困難な状況をも打破し成功を成し遂げられたのだと思います。私もいつしかそのような次元に至れればと切に願うとともに、福武さんがおっしゃる「経済は文化のしもべ」というメッセージは、誰もがその意味するところに深く思いを致す価値があると考え、ここにご紹介させていただ次第です。