「歴史カードゲームハイスト」代表取締役CEOです🔥(こんな人生歩んできました)
初めまして、皆さん。株式会社Highsto代表取締役CEOの渡辺拓磨です。
歴史カードゲームHi!storyを制作・運営している株式会社Highsto(ハイスト)代表取締役CEOの渡辺拓磨です。
Wantedlyで自己紹介をしつつ、一緒に働く皆さんに「CEOってどんな人生を歩んできて、どんな考え方なんだろう?」っていうのを知ってもらえたらと思って、この文章を書きます!
一緒に働くことになるかもしれない人のことをあらかじめ知っておけることは、良いことだと自分は思うので、丁寧に細かく書きます!
目次
初めまして、皆さん。株式会社Highsto代表取締役CEOの渡辺拓磨です。
小学生時代(小学校1年生〜4年生)
「とにかく遊んでいておバカな感じだった小学校低学年」
小学生時代(小学校5年生〜6年生)
「転校して友達もガラッと変わって自分も変わった小学校高学年」
中学校時代(中学校1年生〜中学校3年生)
この時に初めて知ったのは、「人の心を動かすのは数値だけじゃなくて、泥臭い行動だ」という風に初めて知りました。
高校時代(高校1年生〜高校3年生)
・落ちこぼれと成り上がり
・痛恨の大学受験
結果は不合格。頭は真っ白。
「文転します」
大学生時代(大学1年生〜大学3年生)
小学生時代(小学校1年生〜4年生)
「とにかく遊んでいておバカな感じだった小学校低学年」
小学校1年生の時の自分は、「本当におバカ」という感じでくだらないことを言っては、友達と大笑いしているタイプでした。
小学校では勉強もあまりできず、時計を読むのもやっとだったらしいです。ただ、小学校時代の前半は千葉にいたので、友達とひたすら遊ぶのが楽しくて毎日遊んでいました。
昼間は学校で遊び、放課後は友達とチャリを爆走させ、公園のベンチでデュエマで遊び、その後サッカーをするというのをひたすら繰り返していました。
この頃は、勉強はさせられていたけど、好きじゃなくて、絵を描いたりDSしたり、デュエマのデッキを組んだりしていました☺️
小学生時代(小学校5年生〜6年生)
「転校して友達もガラッと変わって自分も変わった小学校高学年」
小学校4年生の時に、千葉から東京に転校になって学校が変わり、友達も変わりました。東京のクラスメートは千葉とは少し違って、大人っぽかったのであまりバカなことができるような、言えるような…?って感じで、最初は馴染めなかったのですが、おふざけできる友達を見つけてからは馴染めるようになりました笑
ただ、ここで仲良くなった友人がおふざけしているだけではなくて、「とても賢くて」彼に惹かれる形で「公文」にも通い、「塾」にも急に「通いたい」という言うようになったらしく、ここから急激に勉強にハマりました。当時の塾の先生が「集団的自衛権」「日本の歴史」などにとても詳しい先生で、「当時最新のニュース」と「社会の授業」がリンクしたりして、「興味を持って勉強できたこと」が幸いして、時計も読めなかったのが、小学校6年生の頃にはテストで100点以外取ることがないくらいに急成長しました。
ちなみに、小学校2年生から歴史は好きで、歴史漫画をめちゃくちゃ読み漁っているタイプだったのですが、小6の頃に読んだ「ビルゲイツ」の本で感化されて、そこから「起業家」を志すようになりました。
中学校時代(中学校1年生〜中学校3年生)
小学校までサッカーしかしてこなかったのに、中学校は野球部に入りたい!と言って、野球部に入部しました。弱小野球部だったので、本当に勝てませんでした笑。時には、自分がピッチャーをやって3回コールド40対0で試合に負けることもありました。ただ、この時に仲良くなった先輩と東京から秩父まで自転車でいいったり、電車で関東回ったりしたことは、自分の人生の中で唯一、目的意識なくひたすら世界が広がった時間でもありました。
勉強に関しては小6から成績がよくなっていたので、入学時は少し余裕になってました。(学年で250分の20番目くらいだった記憶です笑)
ただ、少し油断して勉強をしなかったのと、忘れものや遅刻が多い癖がすごくて、内申点の方はほぼオール3に5と4がついてるくらいの感覚でした。中2の時点では5が無くなり、本当に母に怒られたのを覚えています笑
ただ、中3の春に「東京都立多摩科学技術高校」を見に行った事をきっかけに、色々と自分の中で変わりました。当時僕は、起業家として「アイアンマン」を作る事を夢見ていたので、「理系」に進むこと考えていました。(しかし、自分は根っからの文系人間だったので、どうしようか…)
中3がスタートして模試が出てきて、案の定「理科の偏差値が50前後、数学が60前後、社会、国語、英語が65〜70」みたいな感じになって、とことん理系がダメでした。ただ、自分はどうしてもその高校に行きたくなってしまったので、夏休みの3者面談で担任の先生と親に「絶対に受かるから挑戦させてほしい」と伝えました。
担任の先生は「理数科目の配点が傾斜で2倍になるからきついから難しいんじゃ…当日、文系がマックスでも厳しいと思う」と言っていました。
「なら自分は1か8か推薦で行きます」
とそこで自分は答えて、先生と親に笑われたのを覚えます笑。その時の内申点がほぼオール3だったからです。
ただ、そこで親も先生も否定することなく「ならやれるだけやってみなさい」と言ってくれました。
翌日から自分は徹底的に努力しました。人生で努力した瞬間の一つに入っている気がします。まず、全授業のノートに先生が言ったことを一言一句まとめて、予想問題を作って、テスト期間には先生に「この予想問題見てください」と言って、反応を見てました。何種類か作って、先生の反応を見て出てくる問題を予想したりしました(本当はダメかもだけど笑😆)
また、英語の歌は音楽の授業より歌ったし、全ての授業の始まりと終わりに職員室に行って、荷物持ちをしました。帰りは黒板を自分で全部消して、掃除は自分の担当が終わったら、職員室に行って頭を下げて家庭科室の掃除をさせてもらっていたりしました(料理ができなかったので)。
テストの点もバッチリ取って、内申点はほぼオール3だったのが、オール4+5が4つくらいになりました笑例の家庭科室の掃除が効いたのが、家庭科に関してはAAABの評価でなぜか5になっていました😆。
この時に初めて知ったのは、「人の心を動かすのは数値だけじゃなくて、泥臭い行動だ」という風に初めて知りました。
ちなみに、高校の推薦受験は「プレゼン」「集団討論」「内申点」だったので、プレゼンでは自分が好きな歴史人物についてしました。先生たちは歴史を全然知らなかったので、1か8かでしたが、逆に知らなかったことが幸運で質問をそこまでされなかった上に、内容よりもプレゼン技術で見てくれたので、合格しました。入学してから先生に言われたのですが、「うちの学校が始まってから初めて歴史で入ったやつになったよ」と言われました笑
高校時代(高校1年生〜高校3年生)
・落ちこぼれと成り上がり
高校時代は、「周りの理系センスが抜群なことと自分の理系が壊滅なこと」を踏まえて、ある程度作戦を立てました。高校に入ってからは、「大学に行くこと」を視野に入れていましたので、「推薦受験」をもう一度成立させるしかないと思い、入学前から勉強を結構していたと思います。
ただ、1発目の中間テストは勉強量の割に良くなく、結構萎えました。後でみんなに聞いてみると、自分が楽だと思っていた文系は難しく、理系はお遊びくらいに思っていたとか。中学までは全てのテストで理数は100点でミスっても90点台だった人ばかりだったらしく、「これは相当やらないときついぞ」となりました。
ただ、大口叩いて入学したからには「諦めるわけにはいかず」。高3の最後の最後まで、勉強は必死にやり続けます。
同時に「勉強だけしていては意味がない」と思ったので、高校2年生の時点で「シンガポール研修に行こう」という目標を立てました。というのも、校内選抜で「海外に研究発表をして色々知見を回収してくる」プロジェクト的なのがあって、それに参加しよう!となりました。
ただ、自分は高校時代は野球部がなくてバドミントン部に入ったので、研究内容が全くなく、0からのスタートでした。一つだけあったのは、「絶対にシンガポールに行くことができる」という根拠のない自信でした笑
ただ、そこからメンバーを集めて、「脳波をで制御するロボットハンド」という研究を始めました。最初は「脳波でマウスカーソルを動かす」なんて研究になりそうでしたが、「それでは目立たないし、派手じゃない。やるならもっとデカく行ったほうが良い」と自分が言い出してしまって、そうなりました。ただ、自分はロボットは作ったことないし、プログラミングもできなかったので、そこからが大変でした。
Arduinoという機械を学校で1人一つ渡されていたので、Bluetoothでスマホと接続できる脳波測定器をお小遣いで出し合って購入し、計測はBluetoothモジュールを購入して、Arduinoを通してシリアルモニタで行いました。
また、ロボットハンドは当時の千葉大学の研究論文にロボットハンドの仕組みについて書いてあったのを研究メンバーが見つけてきて作り始めました。本当に自分は運が良くて、いつも友達というか一緒にやるメンバーには恵まれていました。彼は頭も切れて、ハンドの設計や制作も一緒にやってくれたし、帰国子女だったので英語がペラペラでした。プレゼンまでに、ポスターを作り、日本語のプレゼンは自分が一番できたので、日本語のプレゼンとポスター制作、ロボットハンドの制作と脳波系からの通信と、通信からとった値をシリアルモニタで出して、サーボモータを制御するということをしてました。
要するに、集中してる状態になるとロボットハンドが動く仕組みを作っていました。一生懸命やっていたのと、ロボットハンドが実物として完成されているクオリティがすごいということで、シンガポールに合格し、研究発表をしに初めて海外に行きました。ただ、そこで自分はインドの少年が鉄屑からドローンを作っている姿を見たりして、「このままでは世界で勝てない」と痛感しました。
また、同時にシンガポールで活躍している日本人起業家の話を聞くタイミングがあり、そこでますます起業しようとなりました。
・痛恨の大学受験
シンガポールから戻ってきた自分の研究グループは、「予算が足りない」という壁に当たっていました。これ以上の精度でハンドを制御するには、より高性能な脳波測定器が必要で、お金を集めてまでやるのは厳しいとなり、私の研究グループは解散。謎にビーコンの研究をすることになりました。ただ、その研究に関しては燃えることができず、結果途中で先生たちに時間をもらって「もう一度BMIのことをやりたい」と言いましたが、「流石に今から厳しい」となりました。
ただ、高校2年生の終わりに「電気通信大学」の横井教授の研究室に行ったことがきっかけで、「大学でBMiとロボットについてやろう」と決めてから、高2の1月から推薦受験に絞って受けることにしました。
「また博打かよ」と思われるかもですが、そこまでの人生で博打に勝ち続けてたので、「努力さえすれば必ず勝てる。いける」と自信過剰になっている部分もありました。中3から聞き続けていた、本田圭佑さんの名言をひたすら毎日流し続けて、物理と数3、推薦用のプレゼンの練習とシートの作成、動画の編集を行うことになりました。動画の編集は初めてそこでやりました。
時が流れて夏休みを経て、自分の数3と物理の状況がかなりまずい状態にあること、コロナの影響で試験結果が9月から11月に変更になるので、落ちたら確定で浪人になることを告げられました。
ただ、ここで引くのはありえない。引くのなら、理系を最後までやり切って諦めがついてから、文系に戻ろうと考えていたので、突っ走ることにしました。親も「そうしなさい」と言ってくれたので、自分の思う方向に進みました。
そして、運命の11月。その日は学校で受ける模試の日で、ラインで親からの通知を待っていました。結果が気になって模試は集中できずでしたが、合格通知の1週間前に電通台の教授から電話があったこともあり、いけるだろうと思っていました。
結果は不合格。頭は真っ白。
模試の休憩中に親から連絡が来て、「落ちてたよ」と言われました。「いや、まじかぁ…」と思い焦りを隠そうとしたものの、「やばい。どうしよう」という気持ちが先行してゾクっとしていました。その日の模試の結果は数学の校内偏差値が16でした笑。
帰り道、自転車で寒い中1人で家に帰っている時、「初めての感覚」を味わいました。ガッツで気合いで、泥臭くやってもどうにもならないケースがあることと、失敗するという気持ちを味わいました。
ただ、同時に「ここまでやってダメだったのなら仕方ない」ともなり、次の日から気持ちを切り替えました。
「文転します」
試験結果が出る次の日に学校に行くと、担任の先生とクラスメートに結果を聞かれました。みんな、「まぁ受かってるでしょ」くらいの感じで聞いてきていたので、落ちたと聞いて「え?」みたいになっていました。
ただ自分は意外と飄々とそこは割り切れて、先生に「俺、今日を持って文転します」ということを伝えました。先生には「無謀すぎる。浪人かレベルの低い大学のみ受けなさい」と言われましたが、「俺はここまでの人生、ギリギリ限界を攻めてきたから、まだやれると思ってるし、ある程度のとこに行って、そこでまた起業します!」と言って、当時唯一知っていた大学の名前「MARCH」に2ヶ月で行くと宣言しました。
そこからは、「地理」「国語「英語」を勉強し始めました。数学使えばよかったのにと今では思いますが、当時の自分は知らなさすぎて「文系の数学も数3レベルでむずい」と思い込んでしまい、数学は使わない選択肢を取りました。(結果的に地理で受験できる大学が限られて苦しむのですが笑)
ただ、そこからの2ヶ月間必死に勉強した甲斐もあって、法政大学、東洋大学、獨協大学に合格させてもらうことができて、法政大学に通うことになりました。(この間にもいろいろあったので話を聞きたければ話します笑)
大学生時代(大学1年生〜大学3年生)
さて、こっからの話は株式会社Highsto創業秘話と重なる部分もあるので、ぜひうちに来てくれたら話します(多分会社の方に書くけど笑)
ここまでの内容を見て「こいつおもろいやん」って思ったら連絡ください!一緒に世界変えようぜ
メール:info@highsto.net (件名に歴CEOへ)って入れてくれたらわかると思います!