私が優等生のレールを外れたワケ
◆優等生時代
私は小学生の頃から勉強が好きで、いわゆるガリ勉だった。とは言っても陰キャラでもなく友達はいたし、割とオープンマインドに見える方だったと思う。
学校の授業はしっかり聞くし、先生へのアイコンタクトもばっちりする。宿題も忘れない。テストも毎回本気で挑む。成績も良い。
習い事は、①ピアノ ②習字 ③スイミング ④英語、中学3年生からは塾にも通っていた。
委員会、係活動、遠足の班ではたいていリーダー役になり、生徒会長までやった。
どこの学校にもいる”ザ・優等生”タイプ。
私立高校、私立大学英米文学科に進学し、短期留学へ行ったり、ゼミの活動に勤しんだり、英語の教員免許も取得した。
◆社会人時代
大学卒業まで親が必死に敷いてくれた”レール”の上を必死に走ってきた。就職活動も真面目にやって当時できる最善の選択をした。
英語は好きだったけど、仕事で使わなくても良いと割り切っていた私は、ソフトウェアの会社に就職。幅広ーい業務を経験させていただいた。ここでも「まじめで自頭が良い子」という風に見られていたと思う。
それで良いと思っていた。
子供のころから必死に勉強して、努力して、根気強く頑張ることが正義だと。真面目に頑張っている人が報われると思っていた。
でも、そうではないということが分かった。
どれだけ学生時代の成績が良くても、それだけ頑張っていても、仕事で結果が出せなければ認めてもらえないし、自分自身でも「楽しい」という感覚を得られない。
結果が出ないことほど辛いことはない。
もちろん、楽しく仕事ができた時期もあった。でも、とあるきっかけで私は足を踏み外して濁流の中に落ちていってしまったのだ。そこからどんどん苦しくなり、状況は悪化。
ホットヨガを始めてみたり、コーヒー時間を作ってみたり、資格の勉強を考えたり、悪いところにばかり注目するのを辞めて、自分の心をコントロールしようとした。
でもついに私は壊れ、すっと冷静に自分の状況を見つめた。
あ、私はこのままここにいては使えない人間になる。
5年後の私は成長しているだろうか?
給料に見合った仕事ができる人材になれているだろうか?
もし、この会社を離れなければならなくなった時、私は人として何を売りに生きていけばよいのだろう?
恐怖にも似た感情があふれてきて、早く環境を変えなくてはならないと強く感じ、人生の分かれ道に出くわしたのだった。
◆ワーホリという選択
環境を変える方法を考えてみた。まず最初に思い浮かんだのは転職だ。転職サイトに登録して、求人を探した。でも、そもそも壊れていた私は自分を見失っていたために、次にどんな仕事がしたいのかもわからず、なかなか進まなかった。
そこで舞い込んできたワーキングホリデーの広告。もともも海外への憧れはあったし、英語もテストはできるけど使えないという日本人にありがちな英語好きだった。
ここまで落ちたなら、自分が憧れてたこと、好きだけど中途半端にしてきたものと、一回ちゃんと向き合ってみようと思った。
そして私は決意した、本気のワーホリへの挑戦。
「どうせ旅行でしょ?まぁ、楽しんできなよ。」
そんな声ばかりだった。
私は、そんな生温い気持ちで海外に行ったのではない。見返したかった。
異国の地で、一人前の大人としてはマイナスからのスタート。
苦しかった。
辛かった。
自分自身と向き合うことがとても多かった。
自分が情けなくなった。
お金がないときは500gで¢60のパスタで凌いだ。
生卵を投げつけられたこともある。
必死に仕事を探し、シフトを勝ち取り、人に必要とされることも増えた。自分にだんだん自信が付いて行った。
結果、所持金AUS$400から、半年でAUS$10,000貯金に成功した。
たくさんの出会いもあった。
環境を変えると出会える人が変わる。体験をもってそう学んだ。ワーホリに行ったことで出会えた人たちは私の財産だ。
幼い頃から鍛え上げた、真面目さ、考える力、根性に助けられた。
親が敷いてくれたレールが頑丈で安心だったからこそ、私は無心でその上を走れた。
本当に感謝しかない。
だから、今度は私がレール敷ける人になりたい。もしくは、レールなんて無くても遠回りをしても、傷を負っても進んでいける、そこに幸福感も埋めるということを証明していきたい。
私は、この挑戦を始めた。
今更レールの上に戻して欲しいなんて言わない。
挑戦し続ける。
過去の自分の選択を正解にするのは未来の自分。