「多様性」と言う名の抑圧
現代の日本社会では、「多様性」が重要視され、頻繁にその価値が叫ばれています。しかし、その実態はどうでしょうか。本当に多様性が尊重されている社会と言えるでしょうか?
男女共同参画社会という言葉が定着して久しいものの、現実には女性が男性に、あるいは男性が女性に無理に合わせることで生じる歪みが見られます。たとえば、理数系が苦手な女性が「女性だから」という理由で理数系の職に就き、企業のパフォーマンスが低下するケース。また、コミュニケーションが苦手な男性が「男性だから」といった理由で対人スキルが必要な職に就くこと。そして、力仕事を女性に割り振ることなど、これらは真の多様性を体現しているとは言いがたいでしょう。
多様性とは本来、誰かが誰かに無理に合わせることではありません。それぞれの特性が活かされ、かつ自由に存在できる環境が整うことが重要です。現在の日本では「助け合い」の名のもと、「多様性」という言葉が悪用され、国民に過剰な負担や我慢を強いている状況が散見されます。「障害」を「マイノリティ」と曖昧に置き換え、その支援を国民個々に押し付けることも一例です。これらの対応は本質的な問題解決を図るどころか、いじめや差別を助長する可能性すらあります。
多様性の中には確かに守るべき自由がありますが、「個性」と「障害」を混同してしまうことは問題です。他人の顔色を伺いながら何でも受け入れることが多様性ではなく、それはむしろ「多様性」という言葉を隠れ蓑にした社会的退廃です。人間は多様に見える一方で、実際にはいくつかの特性が組み合わさっているだけであることもあります。これを解きほぐし、適材適所を実現する努力を怠るのは怠慢と言えるでしょう。
国家が果たすべき役割は、国民に社会的弱者を無理やり受け入れさせることではなく、彼らが自身の能力を発揮し、活躍できる場を整備することです。努力した人や才能のある人には正当な評価と報酬が与えられる仕組みを整え、その一方で生活が苦しい人々には社会として生活を保障する仕組みが必要です。これは税金の本来の役割でもあります。できないことを許容するのではなく、それぞれが自分らしく生きる場を提供することで、初めて真の意味で多様性が社会に根付くのではないでしょうか。
その為に必要なことこそ、精神科医院と福祉サービスの発展です。一人一人が自分の弱点を客観的に受け入れ、社会福祉をすぐに利用できる流れを形作ることこそが今の日本に必要な政策だと考えています。そのためにも障害当事者の政治家やインフルエンサーを起用することで精神科受診のハードルを下げていく取り組みが大切となっていくでしょう。