「銀河鉄道の彼方に」(高橋源一郎)の本レビュー・感想(河崎凌)
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を初めて読んだのはいつのことだったろうか。
はっきりとは覚えていないが、ジョバンニやカンパネルラと同い年くらいだったのだろう。
しかしその時は決して面白いとは思わなかった。
よくわからないというのが正直な感想だった。
宮沢賢治作品であれば「注文の多い料理店」のほうがわかりやすくて面白いと思ったし、宇宙を旅する物語であればもっと派手でかっこいいSF小説があるのにと思った。
でも、不思議な読後感だけはずっと忘れられなかった。
あれから何十年もたち、いったい何度「銀河鉄道の夜」を読み返したことだろう。
その度に、幻想第四次の車窓から見える景色は変化した。
いつしか物語に込められた賢治の願いに思いを馳せ、涙するようにもなった。
そうなると、わかったつもりになってうそぶいたりもした。
「『銀河鉄道の夜』は子供には難しい。賢治の死生観から宗教観まで、すべて入っているから」と。
しかし、何ほどもわかっていなかったのかもしれない。
その証拠に今また読み返してみると、やはり新たな発見がある。
本書『銀河鉄道の彼方に』の中でカンパネルラの父は言う。
「知るということは、なにかを知るということではない、知らないということを知るということなのだ」と。
さて、その本書は、タイトル通り賢治作品をモチーフにしつつ、その地平を新たに切り拓こうと試みる意欲作だ。
冒頭はまったく同じ始まり方(あまりに有名な、天の川を説明する授業シーン)でありながら、ジョバンニと思しき少年の父親は宇宙飛行士で、ある日突然謎の言葉を残したまま宇宙で失踪していた。
そうして徐々に物語は逸脱していく。
やがてありとあらゆる物語(賢治の「なめとこ山の熊」、著者自身の『「悪」と戦う』、漫画の『銀河鉄道999』、果ては「となりのトトロ」などなど)を取り込んで混沌は加速し、物語性・意味性が解体されていく。
563ページの長旅を終えたときに残ったものは、混乱とともに“不思議な読後感”であった。
それは既視感をともない、はるか昔に味わった感覚に近かった。
ときに読書は、たどり着いたわかりやすい結末(目的地)ではなく、その道程こそが意味を持つ。
まさに旅と同じだ。
本書は旅行鞄に入れるには少し大きいが、かつて賢治が連れて行ってくれたあわいの彼方へ、21世紀の今、再び連れ出してくれるものであった。
河崎凌(ヨガインストラクター)