映画型リゾートの演出(國岡徹)
ディズニーランドは、ディズニーのアニメーションがつくりだした独特のファンタジーの世界をテーマパークに置き換えたものである。
一方、リゾートにも、ひとつの映画のもっている世界、そこに流れる時間や空気、そしてその映画が象徴するある時代の気分を立体化、空間化してつくりあげたものがある。
たとえば、米国ロサンジェルスの郊外のパサディナにあるリッツ・カールトン・ハンティングトンは、ハリウッド映画が象徴する豊かなアメリカの上流社会の人々の時間を映画的手法を使ってさまざまに演出している。
午後のアフタヌーンティー・タイムになると、それぞれに工夫をこらしてオシャレしたロサンジェルスの上流階級のマダムたちが、つば広の帽子をかぶり、運転手付きの車で続々と乗りつける。
迎えるのは、サファリ・ルックの「コスチューム」をつけたベルボーイたち。
「舞台」は、一瞬アフリカの奥地を思わせるような広大な森を望む優雅なサロン。
「役者」たるウェイターたちも、ハリウッドのオーディションで選ばれたような「絵になる」
見目うるわしい美形ぞろいで、淑女にサービスするお屋敷の執事のごとく、「演技」もしっかりわきまえている。
また、日が暮れると、バンケット・ホールの中庭に面したホワイエでは、タキシードにイブニング・ドレス姿のレセプション客たちがシャンパン・グラス片手に談笑している姿が明るい照明の中に浮かび上がる。
ここで展開されるのは、切り取ればそのまま映画のワンシーンのような華やかな時間だ。
この「映画セット型」手法を使ってつくったリゾートの典型的な例は、アマンリゾーツであるが、なかでもバリ島のヌサドゥアにあるアマヌサは、映画のハイライト・シーンのごとく、カメラのアングルがねらうカットそのままの「切り取れるシーン」があちこちに散りばめられている。
たとえば、リゾートのハード的発想で言えばまったく必要がないほどの高さをもったロビー棟や、張り出したセミオープンエアのテラス・レストランといった構造。
一見するとムダでしかないこれらも、映画比率でつくられたもので、すべてある一瞬のカット、ワンシーンのために用意されているのである。
何もないガラーンとしたエントランスから入ってきて、ふと視界がパッと開けるその一瞬。
お客の記憶の底に埋め込まれた「いつかどこかで見た映画のシーン」
がカチッと音をたてるようにはじいて呼び覚まされ、知らず知らずのうちにその世界に入りこんでいくのである。
その後も、次から次へと、映画的シーンが目の前に登場し、お客たちはジャッキを使ってどんどん上げられるかのように、そのつくられた時間に入っていくのである。
いわゆる『社交型』リゾートのように、舞台と道具は用意するけれど、そこでどう自分が関係を結んでいくかは完全にお客自身の選択と能動性にまかされているといった、ある種、つきはなしたタイプとはややちがい、このブログでは、舞台設定はかなりハーフメイドの状態までつくられている。
さながら映画の「書き割り」のように、それはどんなシーンで、どんな登場人物がどんな衣装でどんなふうにふるまえばいいのかまで、はっきりとしたイメージが浮かんでくる、非常にわかりやすい設定になっている。
その用意されたステージを借りて、お客たちは「ハンフリー・ボガードと腕を組んで散歩する自分」、「オードリーと海が見えるテラスで朝食を食べる自分」
など、もしそんなことができたらどんなに楽しいだろうと思う仮想の時間、書き割りの時間に入っていくのである。
現実にはありえないけれど、もしあったら楽しいファンタジーの時間をお客に提供しているという点においては『放電型』と共通しているが、『放電型』のように、見え見えの仕掛けでびっくりさせたりするほど単純ではない。
こちらは、もっと意識下に訴えるものである。
リゾートとは、ひとことで言ってしまうと"リセッド、すなわち日常生活でからだに貼り付いたアカを落とし、一度全部チャラにした上でもう一度まっしろなところからはじめ直すーための場である。
そのリセット状態への入り方が、人によっては『隠れ家』にひっそりと身を置くと入りやすかったり、あるいは『島』にギターをかかえて行くとすんなり入れたりするのである。
『社交型』ほどは積極的に他者にはたらきかけて自ら関係をつくろうという気もなく、かといって、『放電型』ほどすべてのお膳だてがすっかりできてしまっているようなところもつまらない、そんなハーフメイドの舞台設定を好む人に向いているのが、この『映画のワンシーン型』である。
國岡徹(ダンスインストラクター)